author : rinrin
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【アダルトチルドレン】怒りの奥にある本当の意味
2011-10-14 Fri 06:11
怒りの扱い方は、とても難しい。
「怒りを出しましょう」とも言われるが、
出してもすっきりしないということもよくあります。

また、抑圧された感情を抱える方たちにありがちなのは
「怒りの本当の意味」を違えてしまうことも多いかと思います。

怒りを上手に味わい、感じるには、
自分への洞察力が必要になるかと思います。

たとえば、誰かに話しかけた時に、無視をされたとします。
そうすると、無視した相手に当然、怒りを感じます。

「私のことを無視して、とんでもない人だ!!」
「謝ってほしい!」
「信じられない!」「非常識な人だ」

そんなことを思います。もっともらしい理由ですね。
これが、外向きの怒りの方向性です。
「私には、怒る正当な理由があるんだ!」とばかりに
過去で抑圧された感情が、今起こっているきっかけで表出します。


その怒りの本当の意味を探っていきますと、

「私の事を嫌いなのかもしれない」
「何か、気に障ることを言ったかな?」
「今度無視されたら、どうしょう」(先読み不安)
「ああ、どうしよう」(怯え)
「怖い」
「責められた感じ」

などの、自分のプライドに関わる問題かもしれません。
しかし、怒りに隠された本当の気持ちを隠すために、
他者に、怒る大義名分を作りだしてしまうこともよくあることです。

怒りの本当の意味を隠したまま、
怒りを表現しても 気持ち悪さだけが残っていきます。

怒りを感じた時に、なぜ怒りを覚えたのか
じっくりと自分と向かい合うことが必要だと感じます。

そうすると、本当は、自分の過去の問題だったり、
無意識の恐怖や不安だったりすることが、ほとんどです。

過去の人生で起こった、
理不尽さ、ないがしろにされた感、罪悪感、無価値さ、
自己肯定感の低さ、劣等感、プライドの高さ、あるいは、
融通の利かなさ、虚無感、自分はOKでない、自信のなさ
などの思いこみに起因しているかもしれません。

現在あなたが感じている怒りは、
過去の嫌な出来事に起因しています。
無意識ではあるけれど、何かのきっかけで
似たような出来事が起こり
過去の解消されない怒りが引き出され、これを何度も
経験しているだけなのですね。

もし、我慢がならず、「他力本願、他者丸投げ状態」で、
相手に怒りを投げてしまったら、トゲは必ず自分に戻ってきます。
トゲが戻ってきたら、また、自分を守るために
さらに強固な言い訳を作って行かなければなりません。
さらに、複雑な思考の回路を作っていくことになります。

怒りを感じ尽くすという本当の意味は、他者依存的ではなく、
自分の心の内側に向けて、自分を見つめていくことだろうと思います。

心に深い傷を持っている方たちには、非常に難しい感覚だろうとは思います。
私も長年、この感覚が、さっぱりわからず^^;
さまよっていたと思いますが、感覚は自分で掴むしかないのです。

すぐに答えは出るものでもありません。
答えの出ない問題を持ちこたえる自力もまた必要かもしれません。

心の回復は、一気に高みに昇る事はできません。
地道に、一歩ずつですね。
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【アダルトチルドレン】自分の「怯え」と向き合う
2011-10-11 Tue 14:50
人が怖いと思えば思うほど、実は、他者から見たら
当の本人がまわりから怖がられているという
本末転倒な状態がよく見られます。

(過去の私もそうでした)

矛盾しているのですが(@Д@; 

「どうして、気持ちを伝えないのですか?」と問われれば
「どうせ言い負かされるから言えないんです」と答える。
これは、成育歴からくる コミュニケーションの癖だと思っていいかと思います。

この場合「私」と「相手」は、すでに言い負かすべく敵になっています。
もし、「私」に言い負かす力があれば、勝てるのに~!ということになります。

この「私」にとっては、他者というのは「言い負かす相手」なんですね。

相手と戦うことが前提で、他者との付き合いをしていけば、
常に 威嚇で「がるるる~~」という状態が内在しているということになります。
たとえ、我慢して、表面を取り繕っていても
「雰囲気」というものは、相手に伝わってしまうものです。

   ↑
え、まさか~、こんなに気を使ってるのに~と思います?

もう一度、言います。

バレバレです。

昔、私もバレてないと思いこんでいましたが、
しっかりバレていました(笑

「私がこんなに頑張っているのに、子どもが動かない」
やっぱり、我慢しているので、子どもを見つめる視線はきつくなります。
笑っていても、目が笑ってない・・・

「私は、こんなに努力してるのに、認めてもらえない」
かなり、我慢してますね。
相手の言葉や行動の端々に、自分を少しでも否定する要素があったら
その瞬間から攻撃する「敵」に変わります。

相手が憎い!けど、言えない!
言えないという思い込みが、恐怖になります。
(言ったらいけないという思考+憎しみ=恐怖)
これって、幼少期の親との関係で作られた癖の1つであり、思いこみなんですね。


そうしたら、言っていいのか?
相手に怒りを、ぶちまけていいのか?

きっと、そうした過去もあったはずです。
このように人との関係が壊れてしまったり、こじれてしまった経験が
さらに、「言えない」信念を強化していきます。

怒りを訴えたら、他人であれば、簡単に関係性は壊れますね。
その事を経験から私たちは知っているので、
他人には、当たらず障らずで付き合うことを学びます。
こうして、対外的には、卑屈感、劣等感を強化していきます。

しかし、家族であったり近しい関係になると、甘えが生じますので
当たらず障らずという関係にはなりませんね。
家族なんだから、わかってくれて当たり前でしょ、みたいな感じでしょうか。

この場合は、家族の誰かが我慢を強いられたり、
同じ家に住みながら、互いに怯えながら相手をへこます機会を
伺ってる状態になります。
パワーゲームですね。
(不登校の子たちの逆転現象が起こるのは、小さい頃は力が無いので
 起こり得ないですが、いつしか腕力が親を越えた時に起こりやすくなります)
家族の中では、逆転現象が起こるまで、優越感を味わいます。


さて、こうして我慢する閾値が高ければ高いほど、心は防衛反応を起こし
感情の封鎖が始まります。
「大したことないのよ」(すり替え)
「どうせ、無駄だし」(あきらめ)←不登校の子たちの引きこもり状態と同じ
「私は頭が悪いから言える力がない、私も悪かった」(罪悪感)
最後に、何も感じない(感情封鎖の完全犯罪)

こうして、どんどん自己肯定感も低くなり
「ばかで、のろまで、賢くない私」を自分で自分に刷り込んでいきます。
人生の基盤(もう1つの安全な場所)がここにあるので、
何をやっても「ばかで、のろまで、賢くない私」に帰着します。

そこに行きつきながらも、

反対に敵に対して自分の優位を見せつけたい衝動も起こってきます。
(人間の複雑なところですね)
これが、家族に対する「優越感・万能感」ですね。

こうなると、「怒り」と「他者より優れていたい優越感」と「劣等感」が
混在してしまって、もう、自分が一体何者なのかさっぱりわからなくなります。

シンプルに整理してみますと

世間にみせる「表の顔」が、劣等感
家族にみせる「裏の顔」が、優越感

となるでしょうか。


この魔のループを断ち切るには 根源に行くしかなさそうですね。
ということで、最初の「言えない」という信念に戻ってみましょう。

ここで、ちょっと考えてみて頂きたいのです。

①「人が怖い」(相手が悪い、相手が私を傷つけた、言い負かしたい、わかってもらえなくて悔しい!)

②「相手の言葉で、悲しい気持ちになったり、腹が立ったり、そんな気持ちを持ってる自分がいる。
  どうしてこんな気持ちになるのかな?こんな自分の感情を和らげて楽になりたいな」

どちらが、自分を見つめているでしょうか・・・?


相手が嫌いなら嫌いでいいと思うのです。
それが 人間というものですから^^

しかし、コミュニケーションに慣れない人は、

「言えない」を⇒ 
「あなたから、こうされた!」
「あなたがこうした!」
「だって!!こう言ったでしょ!」

と言う風にまるで相手をへこまさんばかりの勢いになりがちです。
まあ、多少は、トーンは下がるとは思いますが
やってる事は、変わりません。

他者の言葉や行動だけに視点が置かれやすい、癖を持ってるということですね。
これでは今までと、あまり変わりませんね。


上手なコミュニケーション例としては、

「私は、こう感じたんです」でしょうか。
そして次は、「どうしてこんな風に感じたのか自分で考えてみたの」
と、話を自分の内面を見つめる方向に持っていくことでしょうか。

これは、必ずしも相手に直接伝える必要もないことだとも思います。
自分で自己修正をかけていけば それでOKなことだとも思います。
もし、伝えたくなったら、身近な信頼する人
気持ちを聞いてもらえばいいかと思います。

自分の感情面に視点を置く事が大事だと思います。
自分の感情をないがしろにしていたら、ただの人のあらさがしになりやすいものです。
また、誤解も招きやすいものです。

まずは、自分で自分の気持ちを見つめ、整理していくことをお勧めします。

質問がありましたら、セッションで聞いてくださいね。
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【AC】お手軽な理論よりも自分を見つめて苦しむことが回復の鍵になる
2011-10-10 Mon 00:27
昔の手書きの古い日記を数冊取り出して読み直す機会が最近ありました。

悩み、苦しみ、泣いている過去の私が、そこにいました。

時には、文章にならない殴り書きもありました。


それまで何冊もAC関係の本は読んできた。

いいなあという言葉も、たくさん見てきた。

が、わかっていても、理論は身に付かなかった。

こぼれるように頭から抜けていく。

「自分を信じましょう」「自分を大事にしましょう」

それって、いったいどういうこと??


頭でわからないのなら、最後の最後は、自分の本能に働きかけるものを

選んでいくしかないのではと感じる。


きんたろうさんのブログに出会った時

数回読んでもさっぱりと意味が判らなかった。

何箇所か、どうにも引っ掛かってくるフレーズに

ズキンときたり、むかっときたり(笑

しかし、ズキン、むかっだけではなく

誰もが持つ回復への可能性を信じている

一貫した姿勢に本能的に惹かれていた事も事実。


記事が更新されるたびに、ズキンときたり、むかっとしたりして、

その気持ちをお持ち帰りしては、

自分で何度も反すうして考えては、

じぶんなりの答えを出そうとしていたことは

間違った答えだろうと、正解だろうと

それはそれで、よかったのだろうと感じる。


自分で考えて、自分で苦しんで、自分で悔しがって

かすかに修正をかけていくことが

少しずつ出来ていたのではないかと感じる。

自己矛盾に気づいていくプロセスだった。

矛盾さえも、それまでは気づいていなかったのだから
(正確には、気づこうとしていなかった)
気づこうとしていないのに、どんな本や理論を入れ込んでも何も残らない。


1人で泣いて、1人で苦しんで、1人叫んで、1人で悲しんだ時期

気がすんだら、一筋の光のように次の言葉が入ってくる。

私の中で「言葉」が突然意味をなしてくる瞬間。

それは「わかった」「認めた」という瞬間。

そんな時代のことを

バカみたいだったな~というのは、確かにある。

はたから見たら、こっけいにも見えただろう。

ACの回復には、このバカみたいに、必死になることは必須だろうとも思う。

理論だけで、きれいさっぱり数十年の癖がなくなるわけがない。


わかってみて、「なんだ、こんなことだったのか」と呆然とする時も多い。


けれど、ばっかみたいに一生懸命に回復しようともがいていた

あの頃は、私の宝物。

愛おしいとさえ思う。


あの頃があったから、今の私がある。

苦しいってことは、案外、いいことなんだよ。

苦しいって思う分だけ、本物を経験してるってことだもの。

心の回復が、そんなに簡単にできるはずもない。

それほど、AC回復は生易しいものではない。

外から手に入れた理論なんて、すぐに消えてしまう。

自分が苦しんで葛藤したことしか、自分のものにはならない。

失敗の数だけ、成長できる。


少なくとも、私は「きれいな幻の世界」「つもりの世界」に

行かずにすんだことに、今は何より安堵している。

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【不登校・AC】自分から人との関係を終わらせる(閉じる)時
2011-09-26 Mon 18:20
人との関係を終わらせる時・・・人との関係を自分から閉じる時ですね。


誰かと気まずくなった時

人は自然に防御反応で 相手との距離をとろうとします。

自然なことだろうと思います。


人生の中では、どうしても気の合わない人もいて当然です。

しかし、同じパターンがやたら続く場合

ちょっと 立ち止まって 考えてみたほうがいいかもしれませんね。

無意識の行動パターンなので、よくよく自分を観察しなければなりません。

そこに「今回はあの時とパターンが違う」と言い訳が入ったとたん

これまでの なじみの癖で感情の「すり替え」が入ります。


また、ここでの「人間関係が終わる」と表現していることは

自分の狭い範囲のプライドで

今いる場所を動きたくない

自分を凍りつかせ意固地になって 相手を拒絶している状態を示します




基本的に 相手を拒絶した場合、

目安として、1か月以内に自分の意固地の解除をしなければ

相手との関係性は終わる可能性が高い

と思っていいかもしれません。

他人の存在とはそういうものだろうと感じます。



しかし、親子関係では、そうもいきませんね。

他人とは違って、子どもたちはずっと 母親を待ち続けます。


今日の記事では、他人との関係性に重点に置いて

考えてみようと思います。


なぜ、1か月が目安なのか?


たとえば、ママ友との関係性で考えてみましょう。

最初の1週間は、問題の嫌な相手から離れられて

ほっと安堵する気持ちが8割ですね。

「やれやれ、やっと解放された!」

そんな気持ちでしょうか。


次の1週間は、次第に 疑心が膨らみます。

ターゲットとなった ママ友の動向が気になります。

また、ママ友と関係する自分の友達の動向も気になり始めます。

さらには、疎外感も感じ始めます。


そして、次の1週間には、

ママ友とその周りの友達のことが、次第に恐怖の対象になっていきます。

その頃には、もう、元の場所に戻るには、

「よっこらしょ!」って位の勇気が必要になっています。


最後の一週間は、開き直りの時期に入ります。

自分のプライドを守るために

いかに相手が悪いかの、正当な理由を作り始めます。

俗に言う、あらさがしですね。

そして、問題のママ友だけではなく、その場所からも

次第に足が遠のいていきます(関係性の遮断)

ここから、関係性を再構築するには、さらなるエネルギーが必要ですし

なにより、自分のプライドも 引っ込めなければなりません。


もしそれが出来なければ 押し出されたように

違う場所に 活動範囲を移していく(逃げる)しかありません。
(これは自分に軸がないことを示しているかと思います)



こうして人間関係が終わっていくパターン、

誰にでも、経験あるのではないでしょうか?



人生で この繰り返しに心当たりがあるならば

相手の問題ではなく、自分の人間関係の癖に

目を向けたほうがいいかもしれません。



人と人との関係を終わらせることは、いとも簡単です。

長く付き合っていくには、エネルギーも必要ですし

時には自分の意固地な部分を認めることも必要になってきます。


自分の中のこだわりや、人を拒絶する部分が多いほど

このパターンにはまりやすくなっていくのだろうと思います。


そして、もし・・・長い年月、相手との積み重ねた思いを失いたくないと思うなら

大切にしたい絆ならば

「こう言った」「ああ言われた」という証拠探しで

ぐるぐるとなるよりも

自分の頑なな部分を崩してしまうことも大切かと思うのです。



人と人の関係は、目に見えない「思い」によって

繋がっているのではないかと思うのです。


もし失ってもいいと思う関係なら、

自分にとって、その程度の関係だったと思っていいかと思います。

それはそれで THE END もありですね。

関係性を 育てるも、拒絶するのも その人次第ということでしょう。


こうして、お母さんの人間関係の手法を見て感じて

子どもたちは、自分の人間関係を構築していくものだろうと感じます。

さて、あなたは 子どもたちに 何を伝えたいと思いますか



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ハンマーソングと痛みの塔 
2011-08-29 Mon 12:03
BUMP OF CHICKEN が歌ってます。




捨てたものを拾って詰めて 満タンに箱積み上げた

この情景は、ACさんが記憶の操作を行って
証拠集めをせっせと行ってる姿と重なります。


通りすがりを横目に見て 10個目の箱積み上げた

証拠集めの品々を自分を痛めつけると知りながら
積み上げてみた。
通りすがりの人々(母親)に、本当は助けて欲しい・・・
けれど、助けが呼べない
そんな葛藤の始まりを示唆しているように感じます。


そうか これでもまだ足りないのか 誰にも見えてないようだ
それじゃ どんどん 高くしなくちゃ 世界中にも見えるくらい


まだ助けを呼んでいる状態ですが、誰も振り向いてくれません。
方向が間違っていることさえにも気がつきません。

どんどん高く もっと高く
鳥にも届く痛みの塔
その天辺によじ登って 王様気分の何様


次第に 自分の立つ位置を勘違いしていきます。
俗に言う「万能感」ですね。
自分の痛みを積み上げながら 世間の感覚に違和感を覚え
それゆえに作り上げられる 「ACプライド」というものでしょう。

お集まりの皆様方、これは私の痛みです
あなた方の慰めなど
届かぬほどの高さに居ます!

きっと私は特別なんだ 誰もが見上げるくらいに
孤独の神に選ばれたから
こんな景色の中に来た


ACの自分独自の世界観を表していると感じます。
「こっけいさ」でもあります。
これを続けていると・・・どうなるでしょう。


下を見たら目眩がした
掛けたハシゴ、飛ばされた

そして本当に寂しくなった
誰にも見えてないようだ
声も出ないほど怖くなった



次第に孤立していきますね。
あまりに高く上りすぎて、自分に酔いしれすぎて
人と人のつながりを失うはめになります。
失ってはじめて・・・
本当の恐怖を知ります。
しかし・・・不安と恐怖の中に居続けることを
選択し続けていくのです。

下から順にダルマ落とし
誰かが歌うハンマーソング

「皆アンタと話したいんだ 同じ高さまで降りてきて!」


時に、そんな俺様に 声をかけてくれる人も
人生の中ではいたりします。
それでも、「やめて、壊さないで」と
抵抗したくもなります。

でも・・・だるま落としのハンマーは
証拠集めの入った箱を次々と崩していきます。

人と繋がるということは
古いこっけいな自分を崩し続けること、
新しい自分を見出すことなのではないかと思います。

動画のネコ様を 自分だと思って 見てもらえれば
なんだか、泣けてきますよ^^

おすすめの歌でした^^


他にもバンプの曲に
「K」という曲があります。
こちらは、子ども自身から本人が不登校で一番苦しい時に教えてもらった曲です。
この歌を聴くと、苦しかった中にも、
希望を失ないたくない・・・人を信じたい気持を失いたくないと
必死で葛藤していた子どもの心の内を今でも思い出します。
時間があれば、聞いてみてください。

実は、この歌の副題、hollynight が、私の昔の携帯メールの
アドレスに含まれていたんですね^^







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時代【不登校】【AC】
2011-08-13 Sat 17:18
同じ題名で、記事を書くのは、二度目です。


私たち世代(昭和30年代)くらいまでは、

まだ、かろうじて人とのつながりがあった頃でした。

隣のおじさん、おばさん、親戚のおじさん、おばさん、祖父母

自分の家は、荒れ果てていたけれど

少なくとも、逃げ場所があった頃でした。

そこで、他人から かすかな愛情をもらったり

やさしさに触れたり

反対に怖いおじちゃんに怒られたり^^;

今の季節だと

祭りに出かけたり、幼い頃、窮屈な浴衣を着て花火大会にでかけたりした経験が
私の中に小さなきらめきとなって生きています。

そんな記憶も大人になっては忘れはて・・・



覚えていては、現実の家庭(実家)でのギャップに苦しむはめになります。

「私は不幸のままでいい。どうせ助けてくれないのなら
 余計なことをしないで」

悲しいねじれた状態で、思春期を経て、大人になっていきました。

「覚えていても辛いだけ」

それが、記憶を欠けさせる要因の1つだと気づいたのは、この数年。


確かにあったはずのものを

失って生きていくことが

どれほど不確定なことで、

生きる力を奪い続けることか

その仕組みに愕然とします。


AC回復の救いは無意識の中に埋もれた かすかなぬくもり

失くした輝きを取り戻す旅が、AC回復の道のり



しかし40年代を過ぎたころから、時代の様相は次第に変わっていきました。


果たして、現代の心を病み、ひきこもる子どもたちに
この輝きのかけらがあるのだろうかと危ぶみます。

私たち親世代と同じものを彼らに求めるのは
無理な気がしてなりません。

今、お役所が人為的に、地域交流の場所を作っていますが
そこに参加する子ども、または親も少なくなっていると聞きます。


もうひとつ、「時代」が変化したことで
失ったものがあります。

昔、お風呂はマキで焚いていました。
ご飯も、かまどでした。

火を起こしながら、その大変さを知り、いかに火を調節するといいか
工夫したものでした。

掃除も、掃除機などなかった時代。
ほうきで掃いていました。
どうやったら、ごみを効率よく掃きだせるか、
工夫のしどころ。

どこのおうちにも、家庭菜園がありました。
水をやる
肥料を調整する
草取りをする

非常に手間がかかることですね。

もちろん、私たち子どもたちも手伝いながら
生活すること、他者のために自力で動くことを肌で感じ
学んでいきました。

確かに面倒なことではありましたが、
それが、私たちの「自力」になっています。

我慢強さ
前に進む力
工夫する力
自分のために、そして家族のために
サービス精神
稼ぐ力


今は「自力」をつける場所はほとんどなくなってしまいました。

現代の子どもたちは、そういう中で生きている。

また、親世代が持っている「自力」は、
子どもを保護するために使われるという
なんとも、皮肉なことも多くなりました。

これでは「自力」を付けることを、阻止されて育てられた事と同じかもしれません。

そして「何をしても無駄なんだ」という無気力感


自分を生かす力も付けられないまま、大人になっていくのでしょう。


先日の子どもの虐待のニュースで、
「どうして、こんなことするんだろう」と
怒っているコメントを多数見かけました。

もっともですね。



でも、私は怒れないんです。。。

もし、私が今の時代で育っていたら
残念ながら、その親と大して変わらなかったと感じます。


子どもに、自力をつけることは、

これからの最大の課題になってくると思います。

私たち母親も、どう我が子の「自力」を引きだすか

正念場にきているのだろうと思います。

押しつけではなく、

子ども達の心の中に 失いたくない きらめきのかけらを

作って欲しいと思うのです。

そして、お母さんたち自身が持っている「自力」を、

子どもの力を奪う方向ではなく

与える方向で、伝えていって欲しいと願うのです。

これには、根気と忍耐とユーモアと柔軟性などが必要です。

なにより、子どもを見る力が必要かもしれません。




ひきこもりのままでいたい子どもは、誰ひとりいないと思います。

焦り、不安をごまかすために、ネットに夢中になっているだけのこと。

誤魔化しながら生きていくにも、人には限界があります。


出来るならば、

だれかの役にたつ自分でいたい 

生きる意味を見つけたい

心から楽しみたい

自由でありたい

心から願ってるのではないでしょうか。

「めんどくさい」

「たり~」

の言葉の裏側には、自力のなさを嘆く気持ちがあるはずだと感じます。

自由であるためには「自力」をつけるしかないのだと知っているけれど

「あきらめ」と「自力をつける」葛藤で

心がざわついているのではないかと感じてしょうがありません。


これからも「時代」は、もっと変化していくことでしょう。
しかしながら、時代に関わらず、
子どもと生活を共にし、密に接しているのは「親」だと思うのです。


子どもたちの自力を引きだす力、つけていきましょうね。

*どうやって?と聞かないで下さい。
 そんな方法、ありませんから。
 自分がどうやって自力をつけてきたか、そのことを
 さかのぼって考えることで、わかるのではないかと思います。
 自力で考えてみて下さいね。
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兄弟仲
2011-06-15 Wed 19:07
先週、娘が、学校の課題での話をしてくれた。

その中ので会話のひとこま。

娘「いつから、私、○○(となりんの事)と仲よくなったけ」

私「・・・」(仲良かったんだ・・・)←心の声 笑

ACの家庭では、「家族分断の仕組み
で、お伝えしたように、兄弟の仲はもちろん、家族全体を巻き込んだ
分断・個別化を強いられやすい状態になります。

この分断の状態が、もれなく、我が家でも行われたのでした。
(もちろん、私の実家でも行われ、お陰で妹とは、今でも、最悪状態です)
悲しいことに、長い時間をかけて、分断された気持ちは、
疑心となって、それぞれの心の中に、巣くいます。

この中心にいるのが、「おかあさん」です。

お父さんでもなく、子どもでもなく、姑でもなく
まぎれもなく、「おかあさん」だということ。
(犯人探しをしているわけではありません)

裏を返せば、おかあさんの分断する気持ちが緩むと
家族が再生する可能性が、かなり高いことを示していると思うのです。

娘が、「いつからだろう」と、口にしたのは
社会福祉学の授業での課題のレポートを書き
「昔は弟と仲が悪かったけれど、今は、仲がいい」と書いた
その内容について、先生が、
「いつから、仲が良くなったんですか?きっかけは?」
と、問うたことからでした。


「きっかけは、ゲームかなあ」と娘。

でも、どうも、本人はフィットしてない感じ。

そりゃそうだろうな・・・と。

緩やかに、ゆるやかに、私が変わってきたことと連動していることは
間違いないと思っています。

今、思い出すのは、娘が中学卒業して高校入学前の
春休み。息子が中学3年になろうとしていた時期。

3人で、海浜公園に出かけた折り、
海岸の道の途中にある、有名なホットドッグを食べようと
車が多数とめてあった駐車場。。。らしき場所にとめたのです。

ところが、なんと(゜o゜)、駐車場と思ったところは
ただの砂浜で、止めてあった車は、4WDばかりw( ̄▽ ̄;)wワオッ!!

当然、普通車である我が家の車は砂浜にのめり込み^^;
アタフタヾ(▽ ̄;ヾ) )))...((( (/; ̄▽)/ アタフタ

落ち着け~~

こういうときは、ローギアで、ゆっくりだ~~!!
バックは、しちゃいけんよね、うんうん。


が・・・・

・・・・
・・・・


効果なし・・・


やばいぞ。


すぐに、気持ちを切り替えて

「車を後ろから押して!」と後ろに乗ってる娘と息子に指令を飛ばす。


で・・・・・

娘と息子に、車を後ろから押してもらいましたが、
あと、もう少しの力がたりませぬ。

その涙ぐましい我が家の非常事態を見ていた、
観光中の、見ず知らずの高齢のご夫婦が、
車押しを、手伝って下さり、無事帰路につくことが
できました・・・というおち(^▽^;)


あのとき、どえらく、恥ずかしかったこと(@_@)

今でも、何度も、何度もその時のことを思い出して、
娘と息子が私に、そう文句言います。
(いや、私も恥ずかしかったんですけど・・・)
そして、それは、母の武勇伝として、娘と息子の
ふたりの強烈な想い出となっているようです。

「おかあさん、最悪やけん」

「はずかしかった~」と

ふたりが、当時のことを同時に思い出せば、
まるで、その時の再現のように
エキサイトして、口々に私は訴えられます(笑

そして、そのことを思い出す2人は、
口を尖らしながらも、目と声は笑っています。

もしかしたら、そんな、くだらない体験が、
家族のつながりを深めていくのだろうと感じます。

あの時から、家族の「緩和」が起こり始めていたのかもしれません。

そして、「緩和」とは、「許し、許される」ことなのだろうと
思うのです。


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心の配列【配列2】【アダルトチルドレン】【不登校】
2010-11-04 Thu 00:01
さて、前回、時系列の配列のお話をしました。

ところで、配列といえば、皆さんは、どのようなイメージを
抱かれるでしょうか。

きれいにならんだ、数字
一糸乱れぬ、軍隊の行進
こだわり抜かれた品物の陳列
きれいなもの、整えられたもの
安定感
すっきり感
統一されたもの
絶対的な正義感


こんな感じでしょうか・・・。

AC傾向の強い方は、この配列に、美しさや安心感を
求める傾向性が強いと感じます。

「適当」「ほどよく」ということが、できません。

この自分の「配列」を崩すものとして、
子供が、お茶をこぼしたり、
おもらししたり
散らかしたり、床が汚れたり、自分の配列の中で「不快」と
感じるものがあります。

このように、自分の配列の一定の並びを崩すものを排除しようと、
常に神経を張り巡らしています。

それは、子育てならば、必然的に過干渉・監視として、
子供に影響を及ぼすのだろうと感じます。

が、現実には、子供は、予測不能な生き物ですね。
いえ、子供だけではなく、自分以外の他人というものは、実際のところ
自分の範疇をこえているのが、当たり前のことだと感じます。

自分配列が多ければ多いほど、配列に当てはまらない事態が多発するってことでしょう。

例えば・・・、いつもAさんは、お皿を一定の場所に仕舞うことに決めているとします。
そこへ、お姑さんが、やってきて、お茶碗を洗ってお皿類を食器棚に片付けてくれたとします。
ところが、ある日、Aさんは、いつもの一定の位置ではなく、別のところにお気に入りのお皿が仕舞われていることを発見します。


「いらっ」の発生ですね。

同時に、配列を崩された心が傾く感覚を覚えます。

心が傾いた瞬間、過去の消化されていないトラウマと「いらっ」の状態が
リンクすることで、軽いパニック症状に襲われます。
しかし、「軽いパニック」は、常日頃から慣れ親しんだ感覚なので、
これが、パニックであるとは、自分では、気づくことはありません。

配列・心の法律 の多さにより、不測の事態が起こるたびに、
慢性的にパニックを起こしている状態が連続して起こっていると感じます。

そして、ちょっと不機嫌になって、お気に入りのお皿をいつもの定位置に、片付けます。
しかし、お姑さんが、好意でやってくれたことは、理解はできるので、文句も言えません。

数日は、我慢します。
「ありがとうございました」とにこやかに、嘘をつきながら。
しかし、仏の顔も3度まで・・・と言いまして
これが、数日続くと・・・「いらっ」「パニック」の積み重ねで
次第に、「怒り」に変化してきます。逃しようのない「怒り」ですね。

しかし、お姑さんには、直接、「こうして欲しい」と出せない。
どうしてこんなことが、わからないのだろうと、自分の枠の中で
自己正当化も、同時に始まります。

この時点で、自分の強固な配列があることは、無意識であるので
Aさんは、よもや自分に非があるなんて、思いもしません。

そこで、夫に訴えます。
(出せるところに、出すという行動)

しかし、夫は、妻の配列の重要さを知りませんので、
「そんな、小さなことで・・・」と真剣に聞いてくれません。

パニックは、収まるどころか、いっそう激しくなります。
そして、そのことは、怒りの転移となって、
より、出しやすいところを選んで、出すことになります。

それが、子供、ペット、出しやすい友人などであることが、虐待という形にエスカレートしていくのではないかと、経験から感じます。

*「虐待」と書きましたが、殴る、蹴る、無視、腹いせの罵声、ののしり、いじめ、という感情に任せての八つ当たりとなります。



さらに、二次的弊害として、このようなことが、何回も積み重ねられ・・・
「夫は、姑から自分を守ってくれない」という、不信の配列が、出来上がります。

新たな不信の配列は、後に「夫は、あてにはできない」という証拠探しを
Aさんは、するようになります。
結果的に夫を家庭から、排除するか、攻め続けるかのどちらかになるかと思います。
父親は、家庭での権限を剥奪され、子供たちからもAさんによって遠ざけられ
*男性性は、家庭の中から失われ
家庭のバランスが崩れていきます。

*男性性とは、社会的に押し出す力
 子供に、越えるべき問題を突きつけ、自立へと促す力


よって、外へ押し出す力を失った家庭は、内へ、内へと、閉鎖的になっていくことだと感じます。
後に心の仕組みを熟知していない夫が、家庭での居場所を取り戻そうと躍起になっても、お互いに傷つけあう事が、多発する気がします。


このように、配列が多ければ多いほど、不自由であること。
そのことだけは、確かであると、経験上思います。

私自身を振り返りますと、この配列の中での、かつての子育ては、苦痛以外なにものでもありませんでした。

よもや、このような配列が、自分にあるとは気づかないまま
子供を、自分の配列に押し込み、ぎゅうぎゅうに詰め込んだ結果として
子供の心を奪い、不登校という事態を招いたのだと感じます。


このような自分の配列を知るためには、
今までの自分の枠の中で、「配列」がわかることは、ありません。
私は、経験的に、人と接すること、対話していくことでしか、自分の「配列」を知る事が出来ないのではないかと感じます。
対話の中で相手に感じた違和感こそが、「自分の配列」を知る絶好のチャンスなのだと思っています。

*対話とは、慰めあいや、同調(かわいそう、気の毒、そうそう!)ではありません。かといって、相手に直接、怒りや不快な気持ちをぶつけることでもありません。
対話によって生じた負の感情を自分で消化し、味わい、自分の配列を崩す力にしていくことが大事だと感じます。感じた感情は、相手の問題ではなく、自分の問題であることを肝に銘じることが、とても大切だと感じます。


次回、「逆の配列(借り物配列)」について、記事にしてみます。
 
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時系列の話し【配列1】【アダルトチルドレン】
2010-11-03 Wed 08:46
長らくお待たせいたしました。^^;

前回の記事で、「変化したくない無意識・Aライン」について、考えてみました。

これと、関連することで、「変化を嫌う」ことの理由の1つに

時間の配列 が、大きく関係していることを考えてみたいと思います。


「時間の配列」は、あなここの、セッションを受けた方は、
よく、ご存じだろうと、思います。

時間の配列とは・・・

ある一定の一日の流れ、一週間の流れ、一か月の流れ
もしくは、年単位の流れ、

その中には、ある一定の個人特有が持つ「計画」「予定」が、
存在します。

たとえば、一日の流れでいえば、
(子供が小さい場合)

朝7時に起きて、朝食を家族に提供し片付け、
同時に洗濯をはじめ、8時までに終わらせ、
連続TVドラマを、見る。

そして、9時になったら、掃除機をかけ、
10時からは、子供を公園に連れていく。
そこで、公園仲間のお母さん方とおしゃべり。

12時少し前には、帰宅し、おひるごはんを食べ、
お昼寝の時間。




この、ある一日の流れが、朝起きた瞬間から、予定として、できあがっているとします。

これが、時間の配列と呼ばれるものです。
さて、ある日、その平穏な時間の配列を崩すものが出現したとします。

それは、仲のいい幼稚園仲間からの、突然のランチの誘いだったり、
ご主人が、急に、会社を休んだり、子供が、熱を出したり、
忘れていた会合を、ふと、思い出した時・・・


こうなると、自分が決めた配列どおりに、ことが、進まないことになります。

私の過去から、引き出してみますと、ACの思考回路に、「臨機応変」という言葉は、
存在しない気配が濃厚です(笑)

自分の予定した配列を組み立て、それを自分のマニュアルのように
定着させることで、日々安心して暮らせる。
そういう時間の配列の組み立てがあったように思います。

ここに、この配列を壊すものが、出現したとき、
異分子を攻撃するかのような気分・・・つまり


「いらっ」としてしまします。


ご主人が、平日に「昨日は飲みすぎて気分が悪いから昼から会社に行く」
と、言おうものなら、
もう、午前中の配列を、その瞬間から崩される感じがします。
そして、配列どおりに事が進まないことに、いらいら感を募らせていきます。
この感覚は、自分の一部を、否定された感じ、
自分の延長線上にあるものを、領海侵入された感じと表現したらいいのでしょうか・・・

そうなると、いつもの、掃除機のかけ方に、力が入りすぎ、がんがんと、壁に打ち付けてみたり、
ドアをバタン!と、大きめに閉めてみたり、無言のアピールをして、訴えたりと・・・配列を崩されたイライラ感を涙ぐましいほどに訴えることになります。
*これは、午前中に夫がそこにいる不快を言葉にすることで夫を傷つけることは、常識的ではないと判断してのことなのですが、配列を崩された「言葉にできない怒り」を掃除機でぶつけたりするのではないかと感じます。

いきなりの不機嫌な妻の態度に、夫は、??? なじぇ~~?と、面食らうはめになるのです。


数十年も生きてくれば、世の中は、時間配列を崩すことばかり起こります。
むしろ、時間配列を崩すことの方が多いのですが、
AC感覚の強い私たちは、*幼い頃から身に着けた自分なりの配列の組み立てに
強力に、固執してしまうように思えます。

*幼い頃・・・安定しない家庭(機能不全家庭)で育った場合、家庭の中でいつ何が起こるか、突然不測の事態が起こることは日常茶飯事です。
昨日は、許されていたことが、今日は、禁止であったり、明日はどう変化するのか、わからない。
いきなり、夫婦の言い争いが勃発したり、母親の気分もその日の母親の機嫌で、ころころ変わる。
子供にとって、これは大きなストレスになります。
このような心が落ち着かない家庭において、子供たちは自分を少しでも守るろうと無意識に試みます。そこで、「配列」という確固たる、自分の「心の法律」を作り、それによって、少しでも自分を守ろうとするのではないかと、感じます。
それは、一度試みて、たまたま成功したことがあれば、それが輝かしい成功体験としてが強烈に心にインプットされ、「これをすれば、安心」=「過去の成功体験」という、結びつきが作られるように思います。
この一度作られた成功体験による配列は、強固に固定化され、どんなに不便であろうとも、似た状況があると、思考のルートが、「がっし」と作られていく・・・そんな、気がするのです。



もし、健全な心であるならば、配列は、かなり、ゆるく、柔軟性があり、
臨機応変に、変化することができます。
変化することに対して・・・切り替えが上手ということになると感じます。
これは、行き過ぎると、また優柔不断とも取れる場合もありますが、
実は、人が生きていく上で、配列・・・「心の法律」が、少ないほど
心の自由度が高いということになるかと考えます。
ちなみに、「配列」と、信念は、また、まったく別のことだと追記しておきます。

今回は、時間の配列を例にとりましたが、
日常で、なんとなく、イライラが募る、ストレスが多い方は、
自分の身近な「配列」「心の法律」ちょっと、意識してみるだけでも
楽になれることも多いのではないかと、感じます。

明日、配列のお話、②をアップします。

・参考記事 呪縛【心の法律を壊す】by きんたろうさん
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