author : rinrin
【エクササイズ物語】25.私の物語
2008-11-19 Wed 00:00
学童期インナーチャイルドを、やり始める少し以前のことです。


ブラッドショーのテキストによります。


◎神話またはおとぎ話を書く or 手紙を書く


新しい技法で、パワーのあるエクササイズを紹介します。

それはあなたの子ども時代についての神話やおとぎ話を書くことです


もし、これまでの方法が、

あなたにとって特に良い効果があると思われるなら、

手紙の形式を続けてください。

前章でしたように、三通の手紙を書きます。

一通は学童期のあなたへ、

二通目は学童期のあなたから現在のあなたへ、

三通目は親や教師へ、

自分がして欲しかったもので彼らに要求しなかったことを伝えてください。


あなたの神話やおとぎ話には、

学童期のあなたに最も強い影響を与えた出来事が集約されます。

神話やおとぎ話の良いところは、

それらがあなたの論理的な脳、思考する脳に近づくことができることです。

あなたの物語は、

動物に関するもの(お母さん熊とお父さん熊)、

神に関するもの、

王様や女王様に関するもの、なんでもいいのです。


物語には二つのパートが必要です。

パート1は「むかしむかし」で始まり、ある出来事を選んで書き、

トラウマがいかにしてつくられたかに焦点を当てます。


パート2は「そして彼(彼女)は成長し」で始まり、

トラウマが後の人生にダメージを与えたことに焦点を当てます。


あなたの生涯の中で、

印象的で目立ったトラウマ体験の出来事を思いつくことができなくても、

心配しないでください。

あなたは慢性的に憂うつで不安な子ども時代を過ごしたのかもしれませんし、

あるいは何をしても無視されていたのかもしれないからです。


一度自分の物語を書き終えたら、

援護者に読んで聞かせることはとても大切なことです。

この物語は見捨てられたときのあなたの感情に、

あなたが触れることを助けます。

そしてまた、あなたの満たされていない依存欲求と、

これまでの人生の出来事との関係をみる手助けともなります。


「アダルトチャイルド」をとらえるにあたって、

何が私たちにおこったかということが問題なのであり、

「本当の自分とは何か」ということが問題なのではない、

ということを理解した時、中毒性の恥は癒されるのです。


私たちがまだ満たされていない子ども時代の欲求を、

どのように行動化しているのかを知ることは、

中毒性の恥を減らす助けになります。


もし、パートナーと一緒にエクササイズしているのなら、

交代でお互いに読んでみましょう。

あなたのパートナーが自分の物語を読んだら、

あなたがどう感じたかをパートナーに伝えてください。

それが適当だと思えば、パートナーを抱き、優しくしてあげてください。


グループで行っているのなら、

グループの前で各人が自分の物語を読みます。

読み終えたら目を閉じ、

グループの人たちが心で感じたままをその人に伝えます。


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という、エクササイズの章があります。

ブラッドショーの本は、一昔前の翻訳ですし、

あまり、インナーチャイルドに詳しくない人が、

翻訳したであろうことから、

「中毒性の恥」と表現されていますが、

これは、たぶん、「しがみついているもの」

または、「まちがった思いこみ」、あるいは、「執着」だろうと、思われます。




Tatsuさんとも相談した結果、

私は、現代風に書くよりも、おとぎ話風に書く方が、

合っているだろうと、アドバイスされ、

これによって、物語を書くはめに、なりました。

といっても、とても、楽しんで書かせていただきました。


次回は、その私のファンタジー物語の「パート1」を

数回にわけて、記事としてみます。

物語は、心に浮かんだものを、一気に書いたものです。

あまり、考えたりして書いていません。

そして、今、読み返すと、やはり、無意識が、物語にしっかりと、

出てきてます。


昔からある、おとぎ話というものも、

きっと、深層心理的なものが、隠されているんだろうなあと、

思ったりしました。


ほんとは、短くてもいいんです。

でも、私のは、長くなっちゃいました。



そして、「パート2」は、実は、まだ、頭の中です(笑)

でも、最後のビジョンは、しっかり、見えていますので、

大丈夫です。


当時、どうしても、このパート2が書けませんでした。

表面の意識が邪魔をして、物語のための物語になってしまうのです。

お蔵入りした物語は、数しれず・・・

でも、無理やり、作ったような物語ではなく、

自分の中から、ビジョンとして、自然に湧き出るものを文字にして、

書き写すことが、

このエクササイズの趣旨だと思い直したとこから、

もう、一年以上たちました。

今、やっと、その時期がきたのだろうと、思っています。

これらの物語が、癒しを促したのか、

それとも、傷が、癒されたから、書けるようになったのか

それは、今でも、よくわかりませんけれど、

どちらでも、いいことだと思っています。


恐らく・・私は、残された、最後の物語を終わらせ、

そして、Tatsuさんと共同で、はじめた、

インナーチャイルドのエクササイズを終わらせるために、

これらの、インナーチャイルドエクササイズ物語を、

ここに、書きはじめたのだろうと、

今、そんなことを思っています。


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【エクササイズ物語】24.瞑想と乖離とグランディング
2008-11-18 Tue 00:00
学童前期が終り、学童後期のインナーチャイルドに突入しました。

いつものように、その頃の家庭環境を書き出し、

インナーチャイルド瞑想へ入りました。

学童後期といえば、小学生~中学校あたりです。

子ども時代では、一番、多感な時期でもあり、

しっかりとした自我が芽生える頃です。


このころ、私は、一度、引っ越しを経験しています。

自営業が、不況で立ち行かなくなり、

父親が事業をたたんで、父方の実家の近くで、

祖父の事業の手伝いをすることになりました。

学校も変わり、環境も変わり、

そのころ、今の閉塞した生活を壊したくてたまらなかった私には、

一つの希望のようなものもありました。

学校での、友達との別れも、

それほどの痛手はなかったのでした。

私の基盤には、おそらく、友人や土地への愛着というカテゴリーは

あまり無かったのでした。

後に。。数十年後・・・その地を訪れたとき、

すっかり変わってしまっていて、見知らぬ土地になっていました。

でも、かつて、自分が住んでいたそのままの家に、

見知らぬ誰かが住んで、生活していたことに、妙な感じを受けました。

まだ、柱に、こっそり書いた、落書きが・・・あるのかもしれません。

辛かった場所。

さびしかった家。

無くなった故郷。

それでも、私は、ここで暮らして、いた。

どれもこれも、私には、

夢のような記憶になっていました。

しかし、このような表層の意識とは、別に、

私は、失うことの悲しさを無意識に、しっかり、心に刻みつけていました。

子ども時代を、失うということの悲しさを、

かつて、住んでいた家を眺めながら、

当時は、感じなかった、涙を禁じえませんでした。





当時のメールより~(りんりん→Tatsuさん)


昨日から、学童期の瞑想を始めましたが、

学童期のチャイルドから、

無視(素通り)されている気がするのです。

たぶん、学童期が、初めてなので、

感覚がなじめないのかなと、思っていましたが。

今日、もう一回やってみて、

学童期のりんちゃんは、人の言葉や姿が

全然、目に入っていないし、聞こえてないみたいです。

気づいていないと言った方が正解かもしれません。

でも、ちゃんと、普通に生活しているように見えます。

学校へも行ってます。

でも、霧がかかったように、何だか、ぼんやりしてるんです。

自分の世界に入り込んでいるような感じです。

かなり、違和感があります。


このころ、私には、かなりの空想癖がありましたから。

いつも、空想の小人さんや生き物たちと、おしゃべりしたり、

(危ない人ですねえ・・・笑)

自分で物語を作ったり

おとぎばなしの本を読んでは、その世界に浸っていました。

空想と現実の境目が、はっきりしていない感じです。


前回と違って、閉じこもっていないだけ、ましなのですが、

悲しい感じでも、怒っている感じでもないし、

ただ、ぼーっと、夢見ているような感じがします。

かといって、感情が全く無いというわけでもないようなのですが。

つかみどころが、無い感じがします。



確認の言葉も素通りしてます。


そして、この頃です。

自分の本当の姿は、電信柱のような姿なのではないかと思っていたのは。

(電信柱というのは、自分が、この世界では、本当は異形の姿で
 まわりの人は、それを私には、隠しているという、感覚でした)

この夢見るチャイルドの対処法を、ヒントを頂けたら、助かります。



話は、少し、それます。

このころから、割と本格瞑想を指導してもらい、

満月瞑想をはじめていました。

満月瞑想は、もともと、仏教において、

野外で修行していたブッダの弟子たちが、

夜、月の光を浴びながら、

月に心を合わせて、瞑想をはじめたことから、そう、

呼ばれるようになったようです。

丸い満月のような光を、

自分の中に、入れて、

全身に光を通していく瞑想ですが、

この瞑想は、自分が、本来は、光の存在なのだと、

いうことを、思い起させるような、

そういう、幻想的な瞑想です。

いろいろな流派があるかと思いますけれど、

「軟酥(なんそ)の法」という、白隠禅師の有名な瞑想の延長として、

満月瞑想を行っていました。

この満月瞑想は、今でも、大好きな瞑想法です。

ただ、瞑想というものは、

危険度もかなり、あるということを、

Tatsuさんも、何度も繰り返して言っておられました。


乖離について


アダルト・チャイルドたちは、

極度な虐待状態に置かれる中で、

5感を切り離すことで、

5感からくる痛みを避けることができ、

サバイバーとして、生き延びることができたわけですが、

目に見えない「意識」の世界には、

「意識」の世界の方にも、また、危険の要素があったわけです。

(乖離については、後の方に、説明を入れています)
なので、

エクササイズをすすめるに当たっては、

まず、「グランディング」によって、

「瞑想状態」あるいは、「解離状態」と、

「現実状態」との切り替えができるようになること、

これが、まずは、大切なことです。


そして、これが、意識的にできるようになったら、

今度は、「瞑想状態」で、

「特定の波長」を出せるようにしていかなくては、

いけません。


心から出している波長によって、

その波長に応じたものが、感応してくるのです。


そのために、今回のようなエクササイズを行って、

潜在意識の奥底の記憶までも、

クリーニングしていく必要があるわけです。


クリーニングが終わるまでは、

その過去に記憶に焦点を当てることで、

そのときの感情が甦るため、たしかに、辛いと思います。

これは、残念ながら、避けられない・・・

しかし、その記憶や記憶にともなう感情が、

「抑圧」されているために、

現在の生きづらさが続いているわけですから、

これは、膿を出す作業だと思って、

耐える必要があると考えています。


そのときの疲れを最小限にとどめるためにも、

瞑想に取り組む時間を区切り、

それ以外の時間を「グランディング」で、

意識を現実に集中して、

現実生活を乗り切って欲しいと思います。


「特定の波長」というのは、

高い波長、精妙な波長、良い波長、

という意味です。

その思いは、「感謝」に代表されます。

「愛」です。

「思いやり」

「謙虚さ」

「慈しみ」

「信じる心」

「理解する心」

「やさしい心」

「おだやかな心」

・・・

そういったことですね。


日常的にも、

良き言葉の、アファメーションによって、

良い波長で過ごすことを心がけてください。

「ありがとう」

や、

「これから毎日あらゆることがいっそうよくなる必ず良くなる」

などの言葉を心の中で、あるいは、

口に出して唱えるというのは、そのために有効な方法なのです。


「日常生活の波長」

「潜在意識の波長」

この心のすべての波長を、美しい波長にしていくことが、

最終の目的です。


そうすれば、「瞑想状態」であっても

悪い、低級な念波は受けません。

そして、むしろ、

美しい心の波長は、

美しい霊的世界に通じていきます。


それこそ、天使の世界です。


瞑想状態の中で、

非常にあたたかい、やさしい、

今まで、ずっと、あなたを見守ってきた、

霊的な存在の臨在を感じるときが、

近い将来にきっと来ます。


それまで、かんばってほしいと、

切に切に願っています。




瞑想をするにあたって、

落ち着いた環境と、

日頃の心の向け方は、非常に大切だと、

私も、思っています。

また、現実の辛さよりも、とにかく、

今、この瞬間の一秒、一秒を乗り切るという気持ちに、

方向性を向け、前だけを向いていようと、努力していました。


ただ・・・、やみくもに、瞑想するのは、お勧めしません。

というか・・・危険です。

かつて、瞑想によって、

邪なものたちに、心を奪い取られた方も・・・

おられました。。。

ただの、一点のこだわりが、次第に広がって、

疑惑になり、不信に変わり・・・。

そのような事も多々起こるということも、覚えていて欲しいのです。


余談でした。


次に、乖離のメカニズムについて、資料より、

抜粋しました。


インナーチャイルドの癒しより

●解離はどのように起きるのでしょうか

解離はかなり予想できる方法で起きます。

私たちは解離するために自分の体を使います。

怖がっているか驚いたふりをしてみましょう。

どうなりますか。筋肉が緊張して、息を止めることが多いと思います。

解離するときは浅い呼吸をするか息を止めます。

息を止めることで、あなたの体は一種のショックを起こします。

筋肉を緊張させてそのまま保つと血流が止まり、感覚を麻痔させます。

あなたが攻撃を受けているか、怖がっているとき、

アドレナリンが体中を巡っています。

これも感覚を麻痔させ、体に闘争、跳びのき、凍りつきの反応を引き起こします。


[例]

男の人が、ふいに物かげから出てきたとき、

私は凍りついて、体が緊張で固まり身動きできなくなった。

さわられた途端、まるで急を完全に止めたようになった


●解離と自分自身

あなたは今、自分がいつ解離しているか、わかりますか。

かつて虐待を生きのびるために解離した方法で、

今も解離していることがありますか。

あなた自身で解離がどのように起きるかを知ることができれば、

その対処法を学ぶことができます。

解離しているときに自分がどうなっているかを知れば、

そこから戻るにはどうすればよいかわかるでしょう。

そうすれば、自動的に起きてしまう解離を、

自分でコントロールできるようになるかもしれません。

解離を意識するのに役立つ、いくつかの質問を用意してみました。


・解離しているとき、あなたはどこにいますか。

 何か起きていますか。何か考えていますか。

 自分にどんな言葉かけをしていますか。世界はどのように見えますか。


・解離しているとき、あなたの体に何が起きていますか。

 呼吸に注意を向けることが、よい出発点です。

 あなたの呼吸は浅いですか。息を止めていますか。

 体の他の部分はどうでしょうか。

 自分の腕や足を感じますか。

 背中 に何か感じますか。

 下半身が消えていませんか。

 体のさまざまな部分に意識を向けます。

 体のどの部分が空っぽに感じますか。

 麻摩していたり凍りついていますか。

 居つづけたくないと思う体の部位はどこですか。

・何が解離を引き起こしますか。

 解離をしはじめたその直前まで、あなたの経験をさかのぼることができますか。

 何から逃げたかったのでしょうか。

 はじめのうちは答えることのできない質問に思えるかもしれません。

 しかし、少しずつ気がつくようになるでしょう。

 例えば、匂いや場所、音、しぐさ、動作などが引き金になることもあります。

通常、解離は圧倒されるような感覚や不愉快な感情から逃れることです。

体は、あなたが危険だと、脅威だと思った感覚を覚えていて、

あなたを安全な場所に移そうとします。


しかし、今はもうあなたは大人で、恐ろしいと感じたとしても、

あなたはもう危険な状況にはいません。

こうした気持ちを感じ、これらの感覚に向き合うことが、

癒しや自分の生命を取り戻すことにつながる道なのです。

解離しているときに自分の体に何が起きているのかを学ぶことで、

あなたがいつ、どのようにして意識から離れるか、

そのしくみやリズムを理解することができるでしょう。

これによって、再び意識に戻ってくるにはどうしたらよいかが見えてきます。

すると、解離が起きているのに気づきながら、

どこにも行かないでいられるようになったり、

無意識に解離しかけたとき、それに気づくようになり、

そのままでいいのかどうか、意識的に選択できるようになるでしょう。

●意識を体にとどめるには

・呼吸をするのを覚えていてください。

 怖いときは、呼吸を止めがちです。

 自分の体にとどまりたいとき、

 あるいはいったん離れてしまってから戻る場合、

 簡単で最も基本的な方法は、呼吸することです。

 どこかに行こうとしているときの感覚に注目しましょう。

 一度それに気づいたら、

 下半身、丹田(へソの下)に向けて呼吸します。

 ゆっくり呼吸し、自分に「大丈夫、何もかもうまくいく」といい、

 温かく迎えてあげましょう。
 
 起き上がって、足を大地や床にしっかりつけ、体を動かしましょう。
 
 注意を体の内側に向けます。
 
 体をさすり、感覚を自分のもとに取り戻します。

・五感をフルに活用して、現実感覚を取り戻しましょう


・感情を味わうよう心の準備をしましょう。

 そして、意識を感情に向けます。

 自分の恐怖心やニーズに耳を傾けましょう。

 あなたの気持ちは、どんな状態ですか。

 大きな声で言ってみましょう。

 「怖い!」「寂しい!」。

 何が起きているかを誰かに言う必要がありますか。

 サポートが必要ですか。

 自分に対して、もっとやさしくなりましょう。

 そうすることで現実がより安全に感じられ、そこにとどまりやすくなります。

 信じられないかもしれませんが、

 あなたは恐れ、怒り、悲しみを乗り越えることができるのです。

・考えていることに注意を向けましょう。

 自分に言っているメッセージは、力づけるものですか。

 温かいものですか。

 自分を傷つけるものですか。

 私たちは、しばしば怒り、傷つき、恐れなどの気持ちを、

 避けるために自分に厳しくあたることがあります。

 この自分への厳しさが、解離を引き起こします。

 もし自分につらくあたっていると気づいたら、

 より肯定的な言い方をするようにしましょう。
 
 息をして、「大丈夫だよ。私にはこれができるよ」。

・サポートを求めましょう。

 解離状態とは、とても寂しく孤独な状態です。

 自分に起きていることを誰かに話すことが、

 意識を引き戻す助けになることもあります。

 前もって、安心できる友人に話しておきましょう。

 何が起きたか聞いてもらったり、

 それによってサバイバーは苦しみを超え、

 未来に向けて動き出すことができるのです。




衝撃的な心の傷を「覚えていない」とはどういうことなのかを理解するためには、

先に書いた「解離」の過程を知ることです。

耐え難い苦痛や恐怖、暴力にさらされたとき、

人はその体験から自分の一部を“切り離す”のです。

こうした状況では、脳は通常の働きとは異なり、

生理学的にもまったく違った形で機能します。

心が過剰に刺激にさらされると、

普通のように情報を取り込んだり記憶したりできなくなり、

代わりにこうした体験から意識を切り離すのです。

後になって、そんな記憶の断片が、

視覚的イメージや身体的記憶や感覚、

自分をさいなむ感情や考えとなって起ってくることもあります。

意識を切り離したときの状況は、

さまざまな感情・身体的記憶・音・匂い・視覚的イメージなどが、

断片的な形になって記憶されることが多いので、

それらを起きた順にわかりやすく話すのは難しいものです。

また、逆説的ではありますが、

心的外傷は記憶の喪失や断片化をもたらすと同時に、

断片的記憶を消しがたく心に刻印します。

そのため、自分に何が起きたのかわからないのと同じ理由で、

記憶の断片から逃れられなくなるのです。

どちらの場合も、気が散漫で「心ここにあらず」になったときに、

注意してもらうのもいいでしょう。


戻ってきて。

ここは、とっても安全な場所だよ。

私はず一つと待っているから


あなたは、自分を守る道具として、

解離という原初的ですばらしい方法を身につけました。

でも、他の方法で、ストレスを緩和したり問題を解決する方法を、

学んでいくことも大切なことです。

小さな工夫をしながら、いろいろな方法を学んでいると、

いざというときに、いろいろな手段で対応できるようになります。

“伝家の宝刀”としての解離は、あなたがいつでも使える道具の一つです。

怖がらずに新しい方法を学んでいくことにも、挑戟してみましょう。





私は、いつも生きている実感がなく、

なんだか、自分以外のところで、ぼんやりと時間が過ぎ去るような

そんな感覚を、もっていました。

感情は、あるのだけれど、

なんだか、他人事のようであり、

怒りもあるのだけれど、

それも、なんだか、はっきりしない。

だから、人間関係では、

一体、ここは、怒るべきところなのか、そうでないのか、

いつも、私は、悩むのでした。

自分が、自分の体から、離れてしまっている、それが、乖離です。


この学童期の瞑想では、

それらを身に付けた

チャイルドが、見事に、出現したわけです。


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グランディングの方法

地に足をつけ自分が存在していると感じるためのエクササイズ


 5つあげなくてもかまいません。

気づいた分だけあげてみてください。

 まず、今、目に見える物を5つあげてください。
 
 次に、今、聞こえる音を5つあげてください。
 
 今度は、匂いをかいでみて、今、あなたの鼻に届く匂いを5つあげてください。

 手に塗ったハンドクリームの匂いかもしれません。

 そよぐ風に何かさわやかな匂いを感じるかもしれません。

 洋服からお日様の匂いがするかもしれません。
 
 次は、今、肌で感じる感覚を5つあげてください。

 足の下の床の感じ、鞄を抱える肩にかかる重み、

 まばたきするときのまぶたや、着ている服が肌を包む感じなど、

 いろいろ気づくかもしれません。
 
 そして味覚です。5つ異なった味をイメージしてください。

 たった今、飲んだコーヒーの苦味や、

 砂糖の甘さ、クリームのまろやかさなどに気づくかもしれません。
 
 最後に今、あなたの心がどんな状態にあるか、

 気持ちを表す単語を5つあげてください。

 自分の体と心がちゃんとあなたとつながっていることを感じてください。
 



●グランディングのイメージエクササイズ

 体としっかりつながることで、

 エネルギーが出てきて、

 自分の心のなかを探検していく途中で、

 意識が違うところに行ってしまうことを防ぎます。

 ≪やり方≫

 背筋をまっすぐにして、楽な姿勢で座ってください。

 椅子に座ってもいいし、

 床で座布団やクッションの上にあぐらをかく姿勢でもかまいません。

 目をつぶってもいいですし、

 目をつぶることが安全ではないと感じるときは、

 開けたままでも伏し日がちにしてみるのもいいかもしれません。

 ゆっくりと深く急を吸って、

 10から1までカウントダウンしてみるのもいいでしょう。
 
 呼吸をするたびに、

 ゆったりと、心が落ち着いて、リラックスしてくるのを感じてください。
 
 心が落ち着いてきたら、イメージを使ってみましょう。
 
 背骨の一番下の付け根の部分から、

 木の根のようなものや、長い尻尾でもかまいませんが、

 何か長いものがついていて、

 それが長く伸びて、さらに床を通り抜けて、

 地中深くへとつながっているのを想像してみてください。

 まるで木が根を張るように、あなたを大地としっかりつないでくれます。
 
 次は、そのつながっている部分を通して、

 力強くあなたを応援する大地のエネルギーが届いてくるのを想像してみてください。
 
 大地のエネルギーは、床を通して足の裏からもあなたに届いてきます。
 
 そのエネルギーは、光みたいなものかもしれませんし、

 色がついているかもしれません。
 
 あなたにとって力になるそのエネルギーは、

 やさしく守るようにあなたを包んでいきます。

 体中がそのエネルギーの輝きと色に包まれて、

 染まっていくようなイメージもいいかもしれません。
 
 自分の体が、足の先から頭の先まで光輝いて、

 エネルギーの色になっていくのを想像してみるのもいいかもしれません。
 
 しばらく届いてくるエネルギーを受け取ったら、

 今度は自分にとって必要のない恐れや不安、自分への疑いなどを、

 地中深く伸びている根や尾を通して自分のなかから出していきます。

 それは大地に返り浄化されていくのです。

 いらないもの、苦しいものを体から出していくのをイメージしてみてください。

 新しい、力強いエネルギーをもらい、

 いらなくなったものが出ていく流れをしばらく感じたら、

 ゆっくりと自分の呼吸に意識を移します。

 だんだん今、自分がどこにいるのか思い出していくと、

 周りの音も耳に入ってきます。

 ゆっくりと準備ができたら、

 もし閉じていたなら目を開けて、イメージを終えてください。


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グランディグとは、地に足をつけるという意味ですが、

このグランディングの方法は、まさに、そのとおりのものです。

普通の瞑想は、頭の上から光が、入りますけれど、

こちらは、逆で、足の裏から入ります。



また、そして、現実生活でも、今自分がやっていることに、

集中するということも、大切です。

例え話があります。

Bさんが、電話で、子どもの不登校のことを

相談してきました。

彼女は、将来、子どもが就職して、自立できるだろうかと、

ひどく心配していました。

しかし、彼女の息子さんは、まだ、小学生でした。

私は、数年先のことを考えるより、今、学校へ行けない目の前の子どもが、

どうやったら、元気になれるかと考える方が先だと思うと、答えました。

彼女は、いつも、まだ見ぬ先のことばかりを心配していました。

その先の心配は、無意識に彼女の言葉や言動に、

強く影響を与えていました。

先のことを思い煩いすぎるために、

そうやって、人は、「今」を、生きられなくなってしまうのでしょう。

私にも、そういう、行動パターンが、かつて、多大にありました。


何度でも、言いますけれど、

一日を、一生だと思うくらいに、生きればいいのだろうと思います。

「今」の先に、明日があるのです。

このような、単純なことが、当時、私も、本当に、分からなかったのです。





余談の余談です。

私は、小さい頃から金縛りに、悩まされていました。

寝てると、耳元で、話声がしたり、

誰かが歩いていたり、

のしかかられたり、

妙なものが見えたり・・・

最近では、めったになくなりましたけれど。


息子も、今でも、いろいろ、視えているようです。

今は、慣れたと言いますけれど。

今年、我が家の愛犬が亡くなったとき、しばらく、

家の中を歩き回る、犬の爪音がしたと言います。

実は・・・それは、私も知ってたんです(汗;

今は、まったくしませんけどね。

遊びに来ていたのでしょうね。


息子は、小さい頃から、夜泣きがひどい子でした。

決まって、夜中の二時頃、泣きました。


今、思えば、いろいろな符号が一致します。

これは、母方の祖母ゆずりです。

祖母は、私にとって、魔法使いのような、奇妙な人でした。

禅宗の、とても、信仰深い人でした。

でも、そのお寺の「お札」でさえ、金縛りには、

全く効果なかったんですけどね。

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エクササイズ物語~手紙(アンジェラ・アキ)
2008-11-17 Mon 17:56
BY アンジェラ・アキ
手紙

NH●のみんなの歌で、放送されていたらしいです。

15才の自分が、大人の自分に書いた手紙。
そして、大人の自分が15歳の自分に書いた手紙を
歌にしたものだそうです。

いろいろなバージョンがありますが、
これが、一番、感動させられました。


みんな辛いこと、苦しいこと、
壁にぶち当たることある。


「自分とは何で、どこへ向かうべきか、問い続ければ見えてくる」と
15歳の自分に語りかけている箇所は、
泣いちゃいますね。。。


素敵な歌です。



自分の声を信じて、生きて、生きて、生きて、

今を生きていきましょう。

.。.:*・゚+.。.:*・゚+.。.:*・゚+.。.:*・゚+.。.:*・゚+。.:*・゚+。.:*・゚

*このように、
大人の自分から、子供の自分へ
手紙を書いてみると、
自分を支える一歩となるでしょう。

そして、子どもの自分の気持ちになって、
大人の自分へ、手紙を書くことも、
癒しへの一歩となるでしょう。

時代は、どんどん、
深化してきていることを、
ひしと感じさせる歌でした。

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【エクササイズ物語】23.I am GOD'S CHILD
2008-11-17 Mon 10:21
鬼塚千尋ライブより

突風に埋もれる足取り
倒れそうになるのをこの鎖が許さない
心をあけわたしたままで
あなたの感覚だけが散らばって
私はまだ上手にかたづけられられずに


↑これは、ライブ盤では、特別に最初に、
加えられた歌詞だと思われます。

ACに例えると

今まで、親のしがらみに、からみつかれて、
辛くて辛くて身動きができない。
その感覚をひろい集めて、
ひとつひとつ、「これは、私の感覚」「これは親の感覚」と
ふるいわける癒しの工程を
うまく、表現しているなあと、感嘆させられました。


I am GOD'S CHILD
この腐敗した世界に堕とされた
こんな場所でどうやって生きろと言うの?
こんなもののために生まれたんじゃない


理由をもっとしゃべり続けて
私が眠れるまで

効かない薬ばかり転がっているけど
ここに声も無いのに、
いったい何を信じれば?

最後になど手を伸ばさないで
貴方なら救い出して
わたしを静寂から

時間は痛みを加速させて行く



こんな思いじゃ
どこにも居場所がない

.。.:*・゚+.。.:*・゚+.。.:*・゚+.。.:*・゚+.。.:*・゚+。.:*・゚+。.:*・゚



著作権の関係で、省略しています。

かつて、この歌を最初に聞いたとき、
私の中の時間が止まりました。

救いを求める思いが、切々と流れてくる。
やがて、歌と、私の心が共鳴する。

しかし、救いがある。

I am GOD'S CHILD

(私は、神の子)

そういうフレーズが、曲の中に、
何度も何度も、入り込んでくる。

今、新たに聞きなおしてみる。

「何を信じれば・・・」

そう、救いもなく、荒野にひとり立ちつくしながらも、

「こんなもののために生まれたんじゃない」と、


その怒りは、自分の中に住まう神からの思い。

自分の中に神を見出し、より深く、深く・・・

一層大きな、神に出会う。


私の瞑想の旅は、そのようなもの。



今日は、歌紹介で。

.。.:*・゚+.。.:*・゚+.。.:*・゚+.。.:*・゚+.。.:*・゚+。.:*・゚+。.:*・゚

中島みゆき

宙船

その船をこいでゆけ
おまえの手でこいでゆけ
おまえが消えて喜ぶ者に おまえのオールをまかせるな

.。.:*・゚+.。.:*・゚+.。.:*・゚+.。.:*・゚+.。.:*・゚+。.:*・゚+。.:*・゚


銀の龍の背に乗って
「Dr.コトー診療所2006」の主題歌です
作詞・作曲 中島みゆき



あの青ざめた海のかなたで今、
まさに誰かが痛んでいる
まだ飛べない雛たちみたいに
僕はこの非力を嘆いている
急げ悲しみ 翼に変われ
急げ傷跡 羅針盤になれ
まだ飛べない雛たちみたいに
僕はこの非力を嘆いている

夢が迎えに来てくれるまで
震えて待っているだけだった、昨日
明日、僕は龍の足元へ崖を登り呼ぶよ 
「さあ、ゆこうぜ」

*:..。o○☆゚・:,。*:..。o○☆*:゚・:,。*:..。o○☆゚・:,。*:..。o○



いつか、いつか・・・

痛みが羅針盤に変わる。
悲しみは、翼に変わる。
誰もが持ってる、銀の龍。

いつか、必ず、たちがる。


そう信じて・・・、自分を、信じ続けることが、
生きる力であり、自己肯定。

これさえ、あれば、
きっと、生きていける。

子どもも、きっと、そうだ。


当時・・・そんなことを、歌で励まされ、

思っていました。



今も、ちょっと、辛いときは、
中島みゆきさん
平原綾香さん
鬼塚千尋さんの歌は、
私のエネルギーなのでした^^
彼らは、歌手というより、歌姫ですね。

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【エクササイズ物語】22.守りの方々のエピソード
2008-11-13 Thu 00:00
当時、瞑想するにあたって、私自身を守ってくれた存在は、

ビューテ、アントニー、それから、3歳のチャイルドと、Tatsuさんのチャイルドでした。

他に、もうひとつ、特筆すべき存在がありました。

白いオオカミでした。

この狼は、私が小さい頃、自分で作り上げたものだろうと、

私自身思っています。

自分を分裂させた結果、

自分の「良心」を、狼という、姿に作り替え、

自分と分離させ、

守っていたのではないかと、思っています。

この狼の存在は、小さい頃、私の想像遊びや、

夢想しているときに、よくでてきました。

私の一番の慰めであり、友達でした。

話しかけたり、会話をしたり、一緒に遊んだりしていました。

かの狼は、後に私と統合される存在ですが、

そうやって、私は、自分の心が壊れることから、

守り続けてきたのでした。



そして、エピソードが、もうひとつ、あります。

ビューテさんの過去だろうと、思われるのですが、

夢物語として、読んでくださればうれしいです。



彼女は、はるか、大昔の文明で、

下位巫女をして、神殿につかえていました。

しかし、その神殿は、邪教のものでした。

そのころ、文明は、退廃的になっており、

邪教が、正しい宗教をむしばみ、

人々の価値観も、ひどく、乱れ、

ビューテのように、貧しさのために、神殿に、買われていった娘たちが、

たくさんいました。

彼女らは、神殿で、何をしていたかというと、

神に仕えるという名目で、

娼婦のようなことをさせられていました。

その当時、ビューテは、

神殿が、信仰していた、神を、信じてはいましたが、

はるか大昔に、「法」を広められた、伝説となった、偉大な指導者に、

ココロ惹かれていました。

なぜ、それを、ビューテが、知ることとなったかというと、

その神殿に、ただひとり、娼婦である、自分たちを大事に

してくれていた、神官らしき人がいました。

どうも、この人も、現在、私の知ってる人のようです。



これは、私の単なる、憶測ですが、

彼女の時代は、レムリア末期だったのではないかと、

思われるのでした。

そして、偉大な王とは、ラ・ムーではなかったかと、思われます。

そう思うのは、昔から、「レムリア」は、私の郷愁をさそう

キーワードでした。

また、その後、夢で、ビューテとして、存在した「私」は、

津波の前兆のようなものを何回も、経験しています。


彼女の生き方と、当時の私の現実の課題も、宗教がらみで、

符号が一致していました。


前世でもあるようですが、ここで、それを言いきることは、

やめておきます。

自分の中で、確信があれば、

それで、いいことだと思っています。


幾多幾千と、転生し、

その時代を、必死で生きた。

今、その頂点に、今、私が存在する。

出会いを繰り返し、

涙をながし、時には、幸せであったろう。



そう考えると、決して、私は、一人ではないし、

孤独でもありません。

いつも、誰かに、助けられ、守られてきました。


そうして、生命の車輪(アリアンロッド)は、まわっているのでした。

過去の夢は、そういうことを、

私に語りかけてきました。




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ミクシーより転載
2008-11-12 Wed 21:32
ミクシーに書いたり、こっちに書いたり、

節操のない書き方やって、こんがらがってます。

今日のは、ミクシーまる写し記事です。

不登校のカテゴリで、とって、おきたくて、コピーしておきます。



*:..。o○☆゚・:,。*:..。o○☆*:゚・:,。*:..。o○☆゚・:,。*:..。o○


どうも、ミクシーの不具合で、前の記事にアップしたリンクが

非公開になって、読めないみたいです。

こちら、じゅんこさんの楽天の方をご紹介しておきます。
http://plaza.rakuten.co.jp/pianissimo4/diary/200811100002/

三つの言葉

1.あ~、そう、なるほどね~と、やさしく。

2.それからどうしたの?

3.あなたの気持ちはよくわかるわよ。

注意点

コメントはしない。

指示しない。

本人の考え方を変えようとしない。

事実は伝えてもいい

子どもが質問してきたら、一緒に考える(答えは言わない)
あなたが決めてもいいということを伝える。

これを、3か月続けるってことだそうです。



この言葉の意味は、

子どもより、先に答えを出さないことで、
選択権を、子どもに、戻す効果があるのではないかと、思います。

また、子供自身が、自分の意思を尊重してもらっているという
ことが、大切に扱われていると、実感するのでしょうね。

親業では、有名ですが、
子どもの言葉を反復するという、対応にも、近い気がします。

「学校、行きたくないんだ」

「そう、行きたくないの」

「うん、そうなんだよねえ。」

と、会話が次へと促されていきます。

でも、

「学校、行きたくなんだ」

「え~、行かないの?どうしたの?何があったの?」

「・・・○○ちゃんがね、××するんだ」

というパターンには、相手の話は、無理やり引き出せても、
気持は引き出せないわけです。

親は、理由を知りたがります。
分析したがります。

子供も何か、理由を考えなきゃいけないと、
とりあえずの、心当たりのあることを、言っちゃう。

でも、ほんとは、ちがうのかもしれない。
ただ、疲れちゃっただかもしれない。
ただ、ゆっくりしたいだけかもしれない。

それでも、いいと、思う。
休むのに、理由がいるのは、学校と会社だけでいい。
家庭は、子供たちを守る、砦になればいい。

甘やかしという人もいるだろう。
いや、それでも、少しは、導いてやらなきゃと
いう人もいるだろう。

以前は、私も、そうだったかな。

でも、子供が元気で、復活してくれている姿を見ると、
自分の方法は、これで、よかったんだと、思える。

私は、子どもの笑顔と健康を引き換えに、
学校へ行かせるわけには行かないのです。

そんなところ、くそくらえ!で、ございます。


傾聴というのは、

会話のさなかに、自分が次に話す事を考えてちゃ、

できないですね。

傾聴とは、自分の心は、しんとさせて、

じっくり、相手の言葉に、気持ちを傾けることなんでしょう。

3つの言葉を、やってみるとわかるけど、

恐らく、親の側は、すっごく、ジレンマが表出して

くるんじゃないかなあ。

言いたい!、聞きたい!教えたい!指導したい!って、

気持ちを抑えるのって、すっごく、忍耐がいるもんです。

それだけ、子供をコントロールしていたってことだもの。


3つの言葉をやって、ちっとも、
負担じゃなかったわって、言う方、
そりゃ、もう、尊敬しますよ、私。

私も、今でも、教えたい!って、思っちゃいます。


でも、黙ってる。

時間が過ぎると、黙ってて、良かったと思えるようになる。


親が、沈黙を守っている間、子供は、安心して、

じっくり、自分と向き合える時間を得られるのだろうと、思います。

ここで、指導しちゃったら、

子どもが自分の力を付けるチャンスを、

奪ってしまうことになるのでしょうね。


そりゃ、時間はかかりますよね、子供だから。

でも、私たちは、大量生産のロボットを作っているわけじゃない。

心を育てているんですもの。


沈黙は、決して、無視するってことではありません。

「そのままの、あなたでいいよ」

という声なき心のメッセージだね。

でも、一番最強の、言葉だ思う。


子どもの、心の声を聞ける親でいたいと思うですが、

はてさて、聞けているのかなあ、私。


復習のつもりで、不登話でした。



ちなみに、うちの息子さん、

多動ではないけれど、ADD(注意欠陥症)と、病院の心理テストで

言われています。

一時期は、統合失調症も、疑われましたが、

今は、全然大丈夫みたいです。



でも、ADDも、ADHDも、普通の子育てと

変わんないのだと、思っています。

ADDだから、

ADHDだから、

アダルトチルドレンだから。。。

それらは、傾向性であり、症状であり、

「心」には、なんの関係もないことです。


子どもたちは、みんな、自分の心を大切に扱ってほしいと

思ってます。

親をやってる私でさえ、人に自分の気持ち尊重して欲しいと、

願っています。

ただ、それだけのことなのに・・・、

大人、子供、ADD、ADHD、自閉、うつ、

それらに、なんの違いがありましょうか。



ミクシーには無い、おまけ。

ちなみに、私が大切にされているなと思えるシチュエーションって、どんな時だろうなと

考えてみると・・・・、

やっぱり、気持ちをわかってもらえた時!


そりゃ、お菓子をもらっても、お金をもらっても、とっても嬉しいけどさ、

それは、嬉しいってだけで、

大切に扱われているとは、あまり、思えない。

それに、主体は、相手にあって、大切に扱って、もらってるって、感じがする。




尊重されている!と思えるときって、皆様は、どうでしょうか?


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【エクササイズ物語】21.学童前期の終り
2008-11-12 Wed 00:00
当時の記録より(りんりん)


軽く瞑想しながら、
餓鬼の姿のチャイルドに、温かい光のイメージを送っていました。

今日は、本格瞑想再開。

設定場面は、前回の続きより、

焚き火シーンからです。

チャイルドの思いが、流れ込んできました。

「ごめんない、ごめんなさい」

そう、子供のように、しゃくりあげて、泣いています。

話せる状態ではありません。

何が、ごめんなさいなのか、わからないのです。


すると、

私の足元に、小さな女の子が現れました。

あれ~、3歳のりんちゃんです。

私の手を、かわいらしいお手々でつかんでいます。

わたしも、そっと握り返しました。

3歳のチャイルドは、落ち着きはらった顔をして、にこりともせず、

すたすたと、5歳のチャイルドのところへ行きました。

これが、自分だと分かっているようです。

そして、5歳のチャイルドに、両手を差し出して、

泣き崩れている5歳のチャイルドの頭にあてて

なではじめます。

3歳のチャイルドに、なでられて

5歳のチャイルドは、顔を上げ、3歳のチャイルドを見ます。

ふたりは、お互いの辛さを、共有しながら、

まるで、目に見えないところで、会話をしているようでした。


5歳のチャイルドになってみました。

3歳のチャイルドが、「このままで、いちゃいけない」と言っています。

5歳のチャイルドは、怖がって、ためらいを感じています。

「だって、だって、何もできない」と答えます。

5歳のチャイルドの、「このままでいたい、助けてもらわなくてもいい」

と、何もしないことへの強いしがみつきを、感じます。

夜で、冷えてきた感じがしたので、

大人の私は、5歳のチャイルドに毛布をかけて、

抱きかかえるようにして、いっしょに、焚き火のそばに座ります。

3歳のチャイルドは、5歳のチャイルドに寄り添うように

隣に座っています。

そして、3歳のチャイルドが、地面の砂で遊び始めます。

これは、3歳のチャイルドのお得意ポーズだったと気づきます。

5歳のチャイルドは、妙なものを見るような顔をして、ながめています。

その後、3歳のチャイルドは、立ち上がって、

人差し指で、空中に、円を描いた。

その丸い円は、切り取られたようなドアになりました。

3歳のチャイルドは言います。

「このドアをくぐると、世界が新しくなるんだよ」といいます。

しかし、5歳のチャイルドは、怖がって、嫌がります。

この5歳の子の感情は、よく理解できた。

新しいものになる勇気が出ない、決心をしたくない、

今の状況が悪くても、それを変えたいと思わない

そんな、私の状況とつながっています。



3歳のチャイルドは、ドアをくぐり、向こう側へ行ってしまいました。

取り残された、大人の私と5歳の私。

なんだか、ふたりして、決心がつかないのは、

似たもの同志です。笑えます。(悲)

私は、5歳の私に話しかけます。

大人「どうして、暗いところに閉じこもったの?」

子供「何もしたくなかった」

大人「どうして?」

子供「あたしは、こんな、あたしじゃ、いけなかったの」

大人「?」

子供「あたしがいてくれて、嬉しいって思ってくれないんだ」

大人「だれが?」

子供「おとうさんと、おかあさん」

大人「お父さんとお母さんにりんちゃんがいてくれて、よかったと
   思ってほしかったんだね」

子供「ううん。でも、もう、いい。無理だもん」

大人「わたしは、りんちゃんが、いてくれて、嬉しいよ」

5歳のチャイルドは、顔をしかめて言った。

子供「うそだよ」




『援助者』のアントニーさんが、言います。

「居場所なら、ここにあるぞ」

そう言って、チャイルドを抱き上げます。

チャイルドは、明らかに戸惑っていますが、まんざらでもない感じ。

少し、くすっと笑ったような気がしたのですが・・・。

気のせいか?

また、少し、チャイルドの顔が、変わってきた気がする。

そう思いながら二人を見ている、私。


ふと思いついて、ここで、また、たっちゃんからのお手紙を

再度、声に出して読んでみました。





>こころのおくにきざんだ

>かみさまと

>じぶんとの

>そして ぼくとの やくそくでしょ?


この部分で、チャイルドが

「でも、できなかったよ」とぽつりと、小さい声でつぶやきました。


>いまからだって、まにあうよ


「間に合うの?」チャイルドの思いと、私の思いが重なります。


>りんちゃんがしあわせになったら

>りんちゃんのまわりのひとがしあわせになる


そうかな?という顔をして、うつむいている。

>いまのりんちゃんのまわりにも

>めをこらせばたくさんのこどもたちが

>くるしいおもいでねむっているよ

この言葉を聞いて、5歳のチャイルドが、

自分だけの世界の枠から はずれた気がした。そう感じた。

「あれ?え、あ、私だけじゃなかったの?」

そんな感じです。

チャイルドを覆っていた、空気が、ずれたという感じがしました。

彼女の目を通してみたら、

たくさんの、球体が転がっているイメージ。

5歳のチャイルド、顔を上げます。

>その 「きょむ」のせかいをなくすためにどりょくする

>かみさまとかわしたやくそくだ

>ひかりのせかいにかえるじゅんびをするよ

このあたりの言葉に、反応が強く出ました。




手紙を読み終わったら、夜だった森が、朝になっていました。


空が晴れわたっています。

朝の太陽のやわらかい光がチャイルドを包んだ。

チャイルドが、すっと、立ち上がり、水晶を、胸元に、抱えました。

水晶から、光が一層増し、

チャイルドの胸の中に、水晶が、入りこみました。


そして、5歳のチャイルドの姿が、みるみる変化しはじめました。

餓鬼もどきの姿から、ショートカットの女の子が出現しました。

内気で、所在無げな感じを受けます。



「おかえり!」

そう言って、

おとなの私は、小さな りんちゃんを

愛情と祝福をこめて、

力いっぱい、だきしめました。


*ここは、もう、言葉じゃ無理です。感動!!!!

 喜びであふれました!!
 


「おうちへかえろう」

大人の私はそう言いました。

5歳のチャイルドは、はにかんだ笑みを浮かべて、小さくうなずきました。

そして、ふたりで手をつなぎ、丸いドアをくぐりました。

今日は、これで終わりです。

(感想)

光の言葉の力は、すごいなあって、と改めて感じました。

言霊という言葉がありますが、言葉に力があることが

よくわかりました。

心の深いところに、どんどん染み込んでいく感じがします。

その感覚が、最高潮に達したときに、チャイルドが変化しました。

この感覚を、日常的に、忘れないでいられたら、

どんなにいいだろうなあと思います。

3歳のチャイルドは、予想外でした。

彼女は、独立心があって、新しいことに挑戦することが好きな子のようです。

5歳のチャイルドは、まだ、対話をはじめたばかりなので

分からない部分もありますが、やさしさ、思いやりを含んでいる気がします。

面白い発見でした。

もしかしたら、人の子供の発達段階は、

そのようなものが、強調される時期が決まっているのかもしれないです。

この一連のファンタジーを通して、

私は、5歳のチャイルドを自分の中に、取り戻しました。




その後~


この一週間の間、あまり深くインナーチャイルドの瞑想は、していません。

なんだか、その必要が無いような感じがしていました。

と、いうのは、5歳のチャイルドが、私の普段の生活にひょっこり顔を出すからです。

以下は、その事についての たつさんとのメールでのやりとりです。



(りんりん→Tatsuさん)

わたしの中に、5歳の子供が住み着いている感じです。
そして、台所で、料理していると、
ふと、「なに作ってるの?」って、無邪気に出てきます。
それは、普段の生活の所々で、出現します。
今、必要なことは、この子と共に過ごすことのような気がして。
危ないですかねえ。。。笑
常に、会話しているような感じなんです。
白昼夢してますかねえ?
もしかして、グランディングが必要ですか?

       (Tatsuさん→りんりん)
調子が悪くならなければ、良いのではないでしょうかねぇ。
思春期の瞑想のあとの、
育てなおしのところでは、
そうやって、チャイルドの相手をしてあげなさい、
というところが出てくるんですけどね。
もう、それが、はじまっているんでしょうねぇ。


これを聞いて、安心しました。

そして、本日、インナーチャイルドに、会うために、瞑想してみました。

(瞑想時の様子)

おうちの中の、お気に入りの場所で、座って遊んでいました。

「何してるの?」と聞いたら

ビニールの動物型のおもちゃで遊んでいました。キリンさんを持っていました。

ああ、そういえば・・・、このような、動物セットを持っていたことを思い出した。

この頃から、動物が好きだったんですね。

家には、犬がいて、猫もいました。

私は、この猫が大好きでした。


5歳のりんちゃんは、ちゃんと、私を覚えていました。

こちらに気づいて、恥ずかしそうに、笑います。
(なんだか、私も暖かい気持ちになりました)

そして、チャイルドが、「助けてくれて、ありがとう」と伝えてきました。

膝に乗ってきます。リラックスして、確認の言葉を聞きました。

ひとつ、ひとつ、うなずきながら、神妙に聞いています。

言葉の意味をかみしめながら、初めて聞く言葉のように、納得していくのがわかります。

(特に、引っかかる言葉も無い感じがしました)

確認の言葉が終わると、ぴょんと膝から飛び降り、こちらを向いて笑います。

それから、彼女からのメッセージを、受け取りました。

「ずっと、一緒に、いてね」と。「そうしたら、わたし、大きくなれるよ」って言ってます。

「大丈夫だよ、一緒だよ」と返すと、安心したように また、笑います。

幸せな、ひとときでした。。。


どうやら、長かった、学童前期は、終わりのようです。

最後に、お手紙交換といきます。

このお手紙を書くというのは、一種の宣誓みたいなものの役割をするのかなと
思いました。

まずは、大人の私から、5歳のチャイルドに向けての手紙です。

***********************

大人のりんより、5歳のおさない りんちゃんへ

りんちゃん、あなたが、ここにいてくれて

おかあさんは、とってもうれしい。

(りんちゃんは、私のことを、なぜか、“お母さん”と呼びます)

もう、とじこもる ひつようは ないんだよ。

どこにも逃げる ひつようは ないんだよ。

かくれるひつようも ないんだよ。

びくびくする ひつようも ないんだ。

あなたは もう みんなから まもられているんだよ。

おかあさんは、あなたが 成長する 

すがたをみることができて、うれしい。

あなたは、じゆうに、のびのびと 

じぶんの じんせいを たのしんでいいんだよ。

あなたのじんせいは、 あなたのものだよ。

ほら、てのひらに 乗り切れないくらいの しあわせ。


いつも いっしょにいるよ。


おかあさんより




次は、チャイルドから、実母へ向けての手紙です。

左手で書いたものを、打ち込みました。
(手紙を書くときは、左手で書きます、その方が、感情をつかさどる
右脳からの、情報が、得やすいからです)

**********************

ほんとうの おかあさんへ

つめたい おかあさん。

あたし とうめいにんげんじゃないよ

ずっと まっていたのに おかあさんは

さいごまで あたしが わからなかったね

ほんとはね もっと いっぱい だっこしてほしかったんだよ

そして おかあさんに いっぱい いっぱい

わらってほしかったんだよ

それだけで あたし しあわせに なったのに

小さな りんより


*****************


次は、実父に向けた手紙です。

**************************

おとうさんへ

おとうさんは いつも おこっていたね

おこっているときの おとうさんは きらい

でもね おとうさん

ほんとはね もっと あそんでほしかったんだよ

あたしは おとうさんが ちょぴり すきだったんだ

これは ひみつだよ

そんなこというと おかあさんが かなしむから

いえなかったんだ

おとうさんが おかあさんにも あたしにも み~んなに 

やさしくしてくれたらよかったのに

おとうさんを もっと すきで いたかったなあ

小さな りんより

**********************


本当はエクササイズでは、お手紙は、この3通でいいのですが、

どうしてもりんちゃんが伝えたいと言っていますので

りんちゃんからのお手紙をのせておきます。


***********************

おかあさん(大人の私のことです)、ありがとう

おかあさんのおともだち

みんな ありがとう

こわいところから たすけて くれて ありがとう

小さな りんより

***********************

つたない字で、紙に、書いた、左手の文字を、PCに、打ち込んだ。

手紙を書き終わり、安堵の息が、こぼれた。

終わった。。。

そう思った。

もう、なにも思い残すことのない、学童前期となりました。


学童前期、インナーチャイルド瞑想、これで、おわります。


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【エクササイズ物語】20.恐怖に、逃げるチャイルド
2008-11-11 Tue 00:00
学童前期のインナーチャイルド瞑想の続きです。

さて、日をおいて、瞑想再開しました。

チャイルドは、どこ?

・・・・

「怖い、怖い」という意識の声が聞こえてきました。

なにかに、おびえているようでした。

そして、呼びかけても、木の陰に隠れて、出てこようとしません。

よく見ると、チャイルドの足もとに、

黒い、ノミのような生き物が、

キーキーと声を発して、うろついています。

形はノミですが、猫くらいの大きさは、あるようです。

大人の自我の私は、怒りが込み上げてきて、

思いきり、「それ」を、叩きつぶしました。

妙な生き物は、地面に吸い込まれるように、消えていきました。

邪気だと、感じました。

今まで、チャイルドとつながっていた、もののけのようでした。

宿主を取り戻そうと、やってきたのでしょうか。

チャイルドは、パニックを起こしていました。

立ち上がると、ぴょんぴょんと、四足の獣のように跳ね、

ものすごいスピードで、その場から逃げだしました。

私の声も、認識できないでいます。

これは、恐らく、感情を制御する機能の暴走を意味しているのだろうかと、

思われました。

チャイルドが、恐怖で、暴走するということは、

大人の私が、時折、感情を、爆発させ、コントロール不能に陥る状態の

象徴的な、姿のようでした。


気が狂ったように、暴走するチャイルド。

私は、追いかけてみました。

しかし、どこまで、いっても、追いつけませんでした。


熱い熱い、乾いた砂漠にたどりつきました。

チャイルドの小さな点が、確認できました。

待ってるわけではなく、まだ、逃げ続けているのでした。

一体、どこまで逃げる気だろう。。。


ただひたすら、チャイルドをを追いかけるしか、能がない私。

ここは・・・・

やがて、険しい山がつづく、雪山に到着・・・。

熱いところから、一転、寒い、凍りつくような場所でした。

荒涼とした砂漠も、人っ子ひとりいない、雪山も、

象徴としては、非常にわかりやすい心象風景でした。


地球を一周したような気分でした。



とうとう、暗い、森の中で、夜になってしまいました。(瞑想の中です)

途方にくれてしまいました。

チャイルドは、すっかり、森の中に隠れひそんでしまったようでした。

空を見上げると、きらめく星がちらばっていました。

へとへとになっていましたが、少し、歩くと、

森の中に、かすかに、灯りが見えました。

それを頼りに、方向を定め、歩いていきました。

近づくと、誰かが焚き火をしていました。。。

(なんでしょうね、このシチュエーションは・・・)

もっと、近づくと、それは、アントニーさんでした。

アントニーさんは、わたしを見て、笑い、

「追いかけても、つかまえられっこないよ」と言います。



ここで、私は、チャイルドにあてて、

自分の今の気持ちをチャイルドに向けて、発してみました。




~チャイルドへの手紙~

ちいさな、りんちゃん

きのう、大きな声で泣いていた、小さな、りんちゃん。

りんちゃんの悲しみは、よくわかったよ。

りんちゃんが、かなしいままでいると

わたしも、かなしくなるよ。

だからね、りんちゃんのことをもっと、知りたいの。

たくさん、お話ししたいの。

そして、思い出そうよ。

ひかりの中にいたときのこと。

あんまり、つらくて、いまは、わすれてしまったんだよね。

でもね、すぐに思い出すよ。

りんちゃんは、あの「約束」をちゃんとおぼえていたじゃない。

くらい地獄につながれていても、

あのやくそくだけは、わすれていなかったよね。

いい子だね。

さあ、ここへおいで。

ここで、待ってるから。

わたしが、まもってあげる。

ここには、あたたかい火があるよ。

いっしょに、おはなししよう。

 
このように伝えると、

森の中から・・・おずおずと、出てきました。

少しは、落ち付いたのでしょうか。

ひどく疲れた様子です。

ああ、また、あの、ノミのような、ごきぶりみたいなものがうろついています。

でも、チャイルドには、なぜだか、近寄れないみたいです。

チャイルドの、ワンピースのポケットが、闇の中で、ぼーっと、

光っています。

私が、そこに目をやると、

チャイルドは、気がついたように、ポケットに手を入れて、水晶を出しました。

アントニーさんから、もらった水晶玉です。

ポケットから出された水晶は、一層輝きを増し、

激しくきらきら輝いていました。

闇を切り裂くような光に、いっせいに、

あたりが明るくなったほどです。



もののけが、大急ぎで、離れていきました。

悔しがっているような声を出しています。

明かりの中で、よく見ると、

まわりの木の上に、得体のしれないものが、大量にうごめいています。

そして、息をひそめて、こちらをうかがっています。

暗かったので、気がつきませんでした。。。

しかし、こちらに、水晶があるかぎり、やつらは、

近づいてこれないようです。

そういう意味があったんですね・・・守りの水晶。


そして、アントニーさんが、怒ったように、立ち上がると、

アントニーさんの体から、膨大な光が上って、もののけたちが、

アリの子を散らすように、逃げていきました。(ひゃあ)


そして、アントニーさんは、少しはなれて、ぼんやり立っているチャイルドを

軽々と抱えて、ご機嫌の様子で、火のそばにもどってきました。


チャイルド、やっとゲット。


「心配したんだよ。」

そう言いながら、チャイルドをだきしめました。




*いつもいつも、このように、チャイルドとつながることが、できるとは、
限りません。
そのとき、その日の、集中の度合もありますし、
体調や、気分的に、できない日も、多かったのです。

そのときは、自然にまかせて、時間を決めて、やんわりと軽い瞑想で、
穏やかに、日々を過ごしていました。

ビジョンが来そうなときは、なんとなく、その予感がします。
心の芯の部分からの、呼びかけに似たものです。

それよりも、このころから、少し、集中とゆるみの両方を取り入れて、
瞑想だけではなく、グランディングにも、力を注いでいました。

家の掃除をしたり、
自分が、今やってることに、意識を集中させる訓練です。

私は、元来、夢想的な面が、昔からありました。
たぶん、一日、ぼ~とするのは、今でも、大得意です。


しかし、それでは、「今」この時に、意識を持って生きるということが、
おろそかになってしまい、ただの、夢見るおばさんで終わってしまうのも
嫌だったのでした。

「今」の意識を、どこに持ってくるか。
これは、結構、大変な、修行でした。

私は、掃除機をかけていても、車の運転をしていても、
とにかく、心ここにあらず状態が、普通だったので、
今に、心をおくということは、非常に苦痛を伴うことでもありました。

これは、幼少のころ、虐待を受けた子どもに、よく、見られる傾向なんだそうです。

子どものころ、目の前で、直視にたえない、事態が起こっていることがあると、
それから、心理的に逃げるためと、自分の心が壊れないようにするために、
心を、よそに持っていって、体だけ、ここに置いている状態を、乖離(かいり)と、いいます。

生きているのだけれど、生きている実感がない。

子どものころの、そういう生き方は、子どもながらの防衛法でしたが、
大人となった今、このように、「信念」となっている乖離は、
もう、必要ないのだと、心と体に、働きかける必要がありました。

その克服法が、グランディング(地に足をつける訓練)です。

今に意識をもってくる。

今でも、かなり、難しいと感じますけど、

だいぶ、うまくなりました。

「一日一生」とは、うまく言ったものです。


ないですか?

掃除しながら、一年先のことを、考えてたりしませんか?笑

掃除のときは、掃除に集中~です。

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【エクササイズ物語】19.怒りの受け止め方と自己犠牲の精神
2008-11-10 Mon 10:56
●怒りの受けとめ方より(参考文献抜粋)


グリーフ・ワークを進めていくときに出てくる「親への怒り」は深刻です。

私がセラピストとして、あるいはグリーフ・ワークに付き合う人間として、

心掛けていることがあります。

それは「もういいかげんに親を怒るの止めなさい」とか、

「過去のことなのだから」とか、

「親だって大変だったんだから、それを理解して和解しなさい」

というようなことを一切言わないということです。


家庭内に閉じこもって暴れている子どもとは、

退行(子ども返り)している子どもです。

つまり自己流に「内なる子ども」を表現して、

グリーフ・ワークしている人たちなのです。

自己流というところがちょっと困るのですが、

せっかくグリーフ・ワークに乗り出したのだから、

怒りを、とくに親に対する怒りを途中で抑制させないで、

これを用いて家族関係を変える努力を親の方でしてみることです。

子どもによる親に限局した暴力は四~五年の経過でみると、

家族内の硬直した人間関係を変える効果を持っているからです。

わかりやすくいえば、暴れる子は、

自分のからだを張って親(とくに母親)の、

表現されない怒りや欲望を表現しているのです。


ですから、家庭内で子どもが暴れている家では、

数年もすると夫婦関係の改善がみられるようになるものです。

時には、親の謝罪が効果を生むこともあります。

ただし通り一遍の「ごめんよ」では駄目です。

親の方も子どもの悲しみや怒りに共感できるようになって、

初めて謝罪が意味を持つようになります。


そのためには、親自身が、

子どもであったときの親との関係で傷ついた自己を、

直視できるようにならなければなりません。


子どもの怒りが放出しつくすときというのは必ずきます。

怒りとは、自らの欲求不満を訴えるコミュニケーションの一様式ですから、

きちんと届いてさえいればいつかは終わるものなのです。

届いていないから続くのです。

なぜ届かないかというと、子どもの言うことに「でも」と応えてしまうからです。

「でもね、お前」とか、

「お前の方も反省して」とかやっていないで、

しっかりと「内なる子ども」、

時には「内なる赤ちゃん」の怒りを受け止められるようになれば、

子ども側の態度に変化が生まれてきます。


どういうかたちで親に対する怒りが収束していくかというのは、

予測がつきにくいものです。

しかし、私の周囲の子どもたち

(といっても三〇代、四〇代の人も珍しくありませんが)

からの話を聞いたり、手紙を読んだりすると、終わる人は終わっています。

「親はこの頃しなびちゃって、もういいやと思いました」という場合もあるし、

「私には、みんなが持っているようなお母さんはいない、

でも私には自分の作った友人や愛する夫がいる」という場合もあります。

皆が皆、似たような親から似たような子どもが生まれるわけではないのです。

「うちの親みたいなデキの悪い親がいてもよいのじゃないですか」

という考え方もあります。

「ああいうひどい親を持ってしまった自分」

という者を受け入れようという考えにいたる人もいます。

なかには親自身の変化が同期して、

「おや、私の親ってああいう面もあったのね」

などと見直すということもあります。

また、自分の方で少しゆとりが出てきて、

今までの人間関係のなかで感じていたいろいろな怒り、不幸という感覚、

惨めさを全部親の方に振り向けていたメカニズムが変化し、

「このごろなんとなく生きるのが楽だ」

という感覚それ自体が過去の親に対する恨みの感情を癒すという場合もあります。


しかし、いずれにしても、親に対する怒りとか嘆き、

貰えなかったものに対する嘆きを自覚するという道は通らなければなりません。


それに気づかないでいて、それが漠然とした恨みになっているときは、

自分を犠牲者とか、被害者だとかというふうに思い込んでしまいます。

そして、その原因もわからないまま、

どこの場面に行っても犠牲者になったり、被害者になったりしてしまいます。


「私は、どこへ行ってもみんなに嫌われて除け者にされる。

ホラごらん、ここでもそうだ」というわけです。

そういう人の行動を見ていると、

人に嫌われるように、少なくとも好かれないように振る舞っているのです。

そういう人は「私に話し掛けたら承知しないよ」

みたいな雰囲気をかもしだしています。


だから、皆が怖がって寄り付かないのです。

それで本人は「いつも孤独だ」なんてやっているわけです。


そういう人たちの問題の中核にあるのが、親との関係なのです。

グリーフ・ワークに付き合う人は、

親に対する怒りを引き出す手伝いをするわけですが、

その場合、クライアントの方が、親を弁護することがよくあります。

むしろこちらの方が普通といってよいくらいです。

しかし、これをそのままにしておくと、

グリーフ・ワークはその段階で止まってしまいます。


親への怒りを否認して、

「親だっていろいろ事情がありますし、そんなに私は傷ついてないですよ」

と言ったり、

「確かに問題のある親だとは思いますが、

私はあの人達とかかわり合うのに疲れたのです。

過去のことですし、私さえ我慢すればいいことです。

もう親のことは想い出したくないのです」と言います。

「何でそんなこと言わせるんだ」とか、

「それじゃあまるで、私の親が私を虐待したみたいじゃないですか」

なんて抗議する人もいます。

実際は、その人は文字通り親に虐待されていたわけなのですが。


そのようにクライアントが親の保護を始めた場合、

私は「そうですか」と、それ以上その間題に立ち入らないことにしています。

そしてグループのなかの仲間が親について語る場面に立ち会うことを薦めます。

親に対する怒りはある程度グループになじんでから、

はっきり表現できるもののようです。


いずれにせよ、私たちは親を選べません。変えることもできません。

人は必ずしも適切に「親をやれる親」をもつわけではありませんが、

私たちはいずれそのことを受け入れるほかありません。

「私は友人たちが持っているような親を持つことはない」

「世間でいう親子関係が私にはない」と思い定めることは大変な苦痛ですが、

しかし「変えられないものは受け入れるほかない」のです。

むしろ、私たちの人間関係の成長は、

「親があのようである」ことを受け入れるところから、

始まるように思えます。

親を変えることの魅力から離れることができたときに初めて、

現在の自分のまわりに存在する暖かい人間関係に気づくようになるからです




斎藤学 著より
(たぶん、そうだろうと、思われます)^^;違っていたら、ご勘弁。


>そういう人の行動を見ていると、

>人に嫌われるように、少なくとも好かれないように振る舞っているのです。

>そういう人は「私に話し掛けたら承知しないよ」

>みたいな雰囲気をかもしだしています


ここを読んで、私は、苦笑しました。


以前の私を知っている人から、たびたび、

「りんりんさんは、いつも、何かに怒っているようで、近寄りがたかった」と、

よく、言われます。

本人は、全然自覚は、無いんですよ。

別に怒っているわけでもなくてですね。


でも、まわりが、証言するところを見ると、やはり、そう感じさせていたのでしょう。

恐らく、家庭でも・・・

子どもも、言います。

「以前は、眉間にしわをよせて、怒っている感じがした」

今は、解けて、ゆるゆるだそうです。

一緒に暮らしている子どもが言うので、正しいと思います。

当時は、別に、怒っているわけではなかったのですが、

子どもは、そう感じていたのですね。

そういうときは、「不登校のおかげでございます」と、付け加えると、

息子などは、嬉しそうに、笑います。


インナーチャイルドは、とても、正直です。

無意識というのものは、目には見えませんけれど、

見えていないのは、本人だけで、

いがいと、まわりは、敏感に、感じているものだと思うのですよ。

思い返してみれば、かつて、私が、台所に立って、料理を作っている姿に、

子どもが「怒ってるの?」と聞いてきたりしたことがありました。

当時は、変なことを聞くなァと思っていただけでしたが、

怒りを腐敗させたら、こうなるという、いい見本話でした^^;


。。。。。。。。。。。。。。。



怒りと、自己犠牲の精神というと、真逆な感じがしますけれど、

実は、そうでもないのではないかと思っています。


一昔前の日本では、三島由紀夫を代表とするように、

自分が何かを訴えようとするとき、

「はらきり」とか、言って、

自分を犠牲にすることで、

訴えを最大限効果的に演出させるような文化背景があったかと思います。

死をもって、訴えるという感じでしょうか。

絶対的な権力者が、いて、

それに、抵抗するには、そういう、極端な方法しか、

選択できないという歴史上の背景が、あります。


以下、Tatsuさんの記事より抜粋させてもらいます。

多少、宗教的な表現が出てきますが、

エクササイズをするにあたって、

スピリチュアルなことに触れれば触れるほど、

宗教的思考が、必要となってきたことは、否めません。

特定の宗教ではないことを、先にお断りしておきます。



お釈迦さまが生きていた時代は、今から約2600年前です。

イエスさまが生きていた時代は、今から約2000年前です。


その時代と、現代社会とで違っている部分は、様々あるとは思いますが、

一つの大きな相違点は、

「差別観」の問題です。

「身分差別」「人種差別」「性差別」・・・


これは、日本の歴史でも、ほんの数百年前まで、

身分差別等の「差別観」は、当たり前のことだったわけです。

生まれた身分によっては、好きな人と、結婚することもできませんでしたし、

権威にさからえば、命の保障さえありませんでした。


もちろん、現代の先進国にも、その思想の残骸は残っていますし、

いまだに、旧態依然とした国も存在していることも事実ですが、

しかし、とりあえずは、人権に差別の無い社会が、

日本をはじめ、先進国においては、実現しつつあることは事実でしょう。


さぁ、これが、その、2600年前のお釈迦さまの時代や、

2000年前のイエスさまの時代においてはどうだったかというと・・・

それは、それは、暗黒の時代といってよいほど、

明確な法律もない、命の安全の保障もない、

そして、権力のあるものが、自分たちに都合の良いように、

がちがちに、身分制度を固めていた時代・・・

それが、二千数百年前の時代の姿であったわけです。


2600年前に、お釈迦さまは、

「悟りのもとの平等」

を説きました。

その時代の平民階級をバイシャといい、

奴隷階級を、スードラといいましたが、

お釈迦さまは、バイシャであるとか、スードラであるとかに関係なく、

出家して法を学ぶことを許し、「悟りのもとに平等」であるという、

外の一般社会とは違う別の価値基準を持つ、

「サンガ」という、悟りを求める人の集団社会をつくりました。


さらに、時代を下ること、600年。

イスラエルの地で、

イエスさまは、

「神のもとの平等」

を説きました。


すべての人が、神さまのもとに平等なのだ!


これは、お釈迦さまと違って、

一般社会とは別に、平等社会をつくるのではなく、


一般社会そのものが、「本来」平等なのだ!


といったも同じでした。

これは、その時代においては・・・

「革命」宣言に等しかったのです!


ですから、当然、イエスさまは、

その当時の旧態依然とした考え方をもつ人の手で、

すさまじい拷問の末に、

十字架に架かって、この世の命を落としました。

イエスさまは、それでも、

自分を処刑するものたちをも、

憎みも責めもしませんでした。

「主よ、彼らの罪を許したまえ!彼らは、自らのなすところを知らざればなり!」

そういって・・・


そして、イエスさまを信じた弟子たちも、

つぎつぎに、つかまって、なぶりものにされて、亡くなりました。


イエスさまを信じ、

キリスト教を信じた人が、

なぜ、あそこまで、迫害され、虐待され、

死ななければならなかったのかといえば、

その理由は数々あるかもしれませんが、

基本的には、

「神のもとの平等」

を信じたからなのです。

その思想が、あまりにも革新的、進歩的すぎて、

それは、現代社会でこそ、受け入れられている「真理」であっても、

2000年前においては、

その当時の秩序と、価値基準を揺るがす、

危険思想に他ならなかったのです。


そして、

「神のもとの平等」

たる社会の実現を願って、

キリスト教徒たちは、

粛々と命を投げ出してきたわけです。


それは、単純に、イエスさまが、そう言ったから、

それを、盲目的に信じて殉教していったわけでない・・


「あぁ、確かに、イエスさまの言うとおりだ。

こんな理不尽に、権力者に、命を奪われたり、

危害を加えられたりする世の中が、

本当のはずがない!」


そう、当時の心ある人の心の中にあった思いを、

イエスさまが、勇気を持って、命を投げ出して、

自分の信じるところを臆することなく述べ伝えて、

そして、十字架の上で亡くなった姿をみて、

みんなが勇気を奮い起こして、

社会とは、人とは、「自由」と「平等」であるべきだ!

と、2000年の間、

命を奪われても、奪われても、

屈することなく、叫び続けた結果、

今の、社会体制が出来上がってきたということなのです。


その屍が、累々と積まれた上に、

今の、自由で、幸福な世界が築かれているということを・・

知らずに、たくさんの人が平和に、自由に暮らしています・・


それを、見て、命を捨てて信仰を貫いたイエスさまの弟子たちが、

けしからん!といっているでしょうか・・?

いいえ・・微笑んで、今の時代を見ていることでしょう。

見返りを求めず、後の世の人たちのために、

後の世に、「神のもとに平等」な社会をもたらすためにこそ、

命を捨てたのですから・・・


もう一つ、二千数百年前の時代を理解するためには、

その時代の人々が、ほとんど無学文盲の人々であったということです。

現代であれば、ほとんどの人が文字を読み書きできます。

ですから、人を感化するのに、一番良い方法は、

言葉や文字で、物事を伝えることです。


しかし、二千数百年前の、文字も書けない、

読むことさえできなかったその時代の人々に、

イエスさまや、イエスさまの弟子たちが、

「神のもとの平等」

を訴えるための方法として、

身分の差別なく、

病気治し等の奇跡をおこなったことは

よく知られていることかもしれません。


しかし、それらの奇跡とは別に、

支配する側の人々に対して、

驚異的なインパクトを与える伝道方法が一つありました。

それが、死を持って、

迫害に耐えることによって、

「神のもとの平等」

を訴えるという方法です。


無学文盲のその時代に、

また、同じく、無学文盲で、

信仰心の強さだけが、唯一の取り柄であった大部分のキリスト教徒達にとって、

「神のもとの平等」を、

当時の権力者、支配層、旧態依然とした民衆に訴える方法は、

それは、イエスさまが、やったように、

自分の信じるところを述べて、「死」をもって訴えること・・・

それ以外には、ありはしなかった・・・


だから、イエスさまにならって、

たくさんの弟子たちが、

自ら死を選び、「信仰」の大切さを訴えました。


僕の胸をゆさぶりやまないのは、

殉教者、聖ステファノの言葉です。


聖ステファノは、後の大伝道者となる、聖パウロが、

まだ、真実を知らずに、キリスト者を迫害していた頃、

パウロのその当時の名前は、サウロでしたが、

そのサウロとその仲間達によってとらえられ、

最初の殉教者となった方です。


ステファノは、

キリストへの信仰を捨てよ!と言われ、

それを拒んで処刑されました。

処刑の際に、ステファノは、

「主よ、どうぞ、この罪を彼らに負わせないでください!」

そう大声で叫んで亡くなりました。


そして、そのステファノの壮絶な最後が、サウロの胸を打って・・・

サウロをして回心へと向かわせる機縁となりました。

そして、サウロは、偉大な大伝道者、聖パウロへと変貌を遂げたのです。


パウロは、その頃の権威を守る側の立場だったのです。

身分制度を守り、それが、秩序を保つことだと信じていた・・・

その価値観を逆転させたのは、

ステファノの「死」であったのです。


そのパウロも最後は、時の権力者につかまり、

その死に様は、斬首の刑であったとも言われています。


その他の弟子たちも、

あるものは、石にてぶたれ・・・

あるものは、鞭にてぶたれ・・・、

あるものは、火にかけられ・・・

あるものは、十字架にかけられ・・・

みんな死んでいきました。


イエスさまの、12弟子の筆頭、聖ペテロは、

処刑の際に、自ら、

イエスさまと同じではもうしわけないと、

逆さに自分をはりつけて下さいと申し出ました。

逆さ十字の刑です。


そして、その迫害の歴史は、その時代だけで終わったか・・・

いいえ、現在の「自由」と「平等」の世界が築かれるまで、

ずっと、その「信仰」を捨てずに生きて、

そして、それを、時の権力者に「反乱」とみなされて死んでいった、

イエスさまの弟子の数は数え切れません。

その暗黒の時代を潜り抜けて、今の社会があるということなのです。


そのように、

その命を捨てることによって、

あるいは、虐待ともいえる責め苦を耐えながらも、

「信仰」を守る姿を見せることよって、

その「信仰」を述べ伝える形の生き方は、

これまでの、2000年間の時代背景の中で、

「キリスト教系」の魂群のすべてが、

等しく、学ばなければならない必須修行項目だったのです。


これが、「自己犠牲の精神」です。


さて、しかし、時代は変わりました。

命を捨てての社会活動が報われて、

新しい時代が築かれることが、明確になった、

1800年代あたりから、

キリスト教には、新しい思想潮流がはじまりました。

「ニューソート」(新しい思想)です。

これは、イエスさまの説いた法の中から、

「信仰」の力、

「信念」の力、

を活用して、現実的に、幸福な人生を歩んでいきましょう。

という思想の流れなのです。


僕たちは、いくら、信仰を口にしても、

そのほか、霊的なことでも、なんでも、

自由に自分の考え方を述べても、

それで、命を奪われることはなくなったのです。

ですから、

自分が、命を捨てたり、危害を加えられることに、

必死で耐えたりしなくても、

「本当に」人を、幸福にすることができるようになったのです。

時代が、そういうふうに変化したのです。

僕たちが、幾度の転生の過程で命を捨てて、

そういうふうに変化させたのです。


しかし、2000年もの間、

幾度も、幾度も命を投げ出し、

悲痛な虐待に耐えて、信仰を貫いてきた魂には、

その刻印が刻み込まれています。

非常に強い、「自己犠牲の精神」の傾向性が、刻み込まれ、

それは、いきすぎて、「自虐的精神」にまでなって、

そして、それが一つの「信念」にまでなっていたら、

これは、時代が変わったことを知り、

勇気を持って、その傾向性を変えていかなくてはいけません。


これまでの傾向性から、

「自分が、犠牲になれば、他の人は幸福になるのだ。」

「他の人が幸福でないのに、自分が幸福になってはいけないのだ」

「自分が虐げられれば、虐げられるほど、天国は近づくのだ」

こうした考えが単純に頭に浮かぶのなら、

これは、すでに「自虐的精神」なのです。

そして、その「信念」は、現実を生みます。

その「信念」に従って、不幸な事件が、次々に、襲いかかります。

そして、その事件に耐えている自分を持って、

聖者のような気になってしまっていたら・・・

それは、立派な「自虐的精神」なのです。


それは、確かに、そうなるには、

そうなるべくして、そうなった、

時代背景からくる正当な理由があったのですが・・・


しかし・・・


時代は、変わりました。

僕たちも、変わらなければならないのです。




「思想」「信念」というのは、

心に埋め込まれた、一つのプログラムなのです。

「自己犠牲の精神」「自虐的精神」

を信条にし、そこに価値を見出していれば、

自分の姿は、それにふさわしい姿になるのです。

そして、周囲の環境も、それが現実化して現出するのです。


ですから、僕は、20代にうつに倒れた後、自分を再生させるにあたって、

いったん、キリスト教的「自己犠牲の精神」を封印し、

仏教的精神に切り替えたのです。


それが、「利自即利他の精神」です。


お釈迦さまは、「利自即利他(りじそくりた)」を説きました。

まず、自分が幸福になりなさい、といわれました。

そして、自分が幸福になり、そして、人をも幸福にする道を探しなさい、

そう言われました。


そうすれば、誰も、犠牲にならず、すべての人が幸福になるでしょう?

そう、やさしくおっしゃっています。


さて、2000年を俯瞰して、

そのお釈迦さまのおだやかな思想スタイルだけでは・・

たぶん、今の「自由」と「平等」の世界は築くことはできなかったと・・

「キリスト教系」を自認する僕としては、そう思いますし、

また、おそらく「本当に」そうだったろうと思います。


しかし、現代の、とくに、先進国においては、

「死」をもってしても、

「迫害」「虐待」に耐えることをもってしても、

もう、それで、人を幸福にできる時代は終わったのです。


人が不幸になる姿をみて、それに、続きたいと思う人は、

現代社会には、もう、いません。

それは、差別された社会下で、

現実の生活が苦しかったからこそ、

来世、あるいは、死後の幸福に願いを託して、

「死」を選ぶスタイルが有効だったのであって、

現代社会では、自分が、死んでも、病気になっても、

そうした不幸を背負っても、

「基本的には」、それで、人に良い感化を与えることはできません。


そうではなくて、これからは、

いかに、そうした、苦しい精神状態から、

幸福で、おだやかな精神に復活できるのかを、

そして、どうしたら、そのおだやかな心で生き続けられるかを、

身をもって示し、そして、その方法を教えること。



これが、今後のキリスト教系の魂群が、学ばなければいけないことなのです。


幸福な姿を見てこそ、そうなりたいと、人が学びたくなるのです。

不幸な姿で「伝道」したところで、

現代社会では、誰も、見向きもしません。


まず、あなたが、幸福になることです。


自分が幸福になるということは・・・

これは、けっこう、むずかしいですよ。

ある意味では、

命を捨てることよりも、難しいですよ。


なおかつ、その「法」を体得して、

他の人に伝えることはできるようになるためには、

長い長い年月がかかります。

心に愛他の思いを宿して、

一滴ずつ、一滴ずつ、

自分の心に、「真理」をため込み、熟成させていく忍耐は、

それは、ある意味では、

死を持って、感化するよりも、もっと難しいことですよ。


いや、しかし、

僕は、あえて、誤解をおそれず、いいましょう。


過去、幾度も幾度も、命を捨てて、

数々の困難に耐えてきたあなたなら、

そして、また、

今世においてさて、

困難な環境に身をおき、

辛い人生を耐えてきたあなたなら、


そのエネルギーを使って、

自分を幸福にすることなど、実にたやすいことであると。


そして、日々、「法」を学び実践し、自分の血肉として、

そして、それを、他の人に分け与えるにいたるまでの、

時間を耐えることなど、非常にたやすい行為であると。


エクササイズも、ホームカミングの瞑想を目の前にしている、

あなたにだから、あえて、厳しい言葉も言いましょう。


アファメーションを続けてください。

瞑想の過程の苦しさにこそ、耐えてください。


夫や、両親、兄弟、友人・・

あなたを傷つけ苦しめてきたその人のことを、

心の底から、許す段階が近づいています。

それも、確かに、簡単なことではないでしょう・・・


しかし、あえて、言いましょう。

命を捨てて、命を削って、

過去、幾転生、転戦し、

人類の歴史を変えるほどに、

たくさんの、真実を知らずに、

罪を重ね続けてきた人々を許し、

許し続けてきた我らにとって、


今世の縁ある人を許すことは、

本当は、実に小さく、たやすいことであると。


だから・・・

一日も早く、自分を立て直すことです。

自分を幸福にすることです。

そのための、日々の努力を積み重ねることです。


現代では、

無意味に、怠惰に、時間を無駄に流してしまうことなく、

その自分の持てる時間の一分一秒を、

「人を幸福にするために」、

自分を幸福にするための時間に振り替えること。

そして、少しでも、学び、前進し、心にエネルギーをためること。

そして、時いたったならば、

自分を幸福にすることもおこらたらず、

しかし、縁のある人に愛を注ぐためにこそ、



自分の時間を、自分の怠惰な欲得のためでなく、


「他の人を幸福にするための時間」として、


そのために、必要な「自分を幸福にする時間」とともに、


有効に、使い切ること。



これこそが、現代的「自己犠牲の精神」です。



現実的に、命を捨てることではありません。

虐待に耐え続けることではありません。

自分が不幸になることではありません。


そこを腑に落として、心の傾向性を、

切り替えていっていただきたいと思っています。




この文章を読みながら、実は、別のビジョンが、私の脳裏で映し出されていました。

新しい導き手である、アントニーさんの姿とダブったのでした。

彼は、石畳みのある、街に、裕福な商人の子どもとして、

そだったようです。

恐らく、ローマに、キリスト教が入り込んできた頃だろうと思われました。

彼は、父親とうまくそりが合いません。

そして、旧ローマでは、アテナ神を、偶像崇拝していたようです。

そこに、新しい思想である、「神のもとの平等」を説くキリストの教えが

入ってきました。

窮屈な、しきたりに、がんじがらめになった、アントニーは、

やがて、地下組織に身をおき、ローマを変えようと、キリスト者として、

奔走し始めました。

親はそれを、知って嘆き、悲しみました。

そして、父親と大ゲンカし、もみあいになり、父親を鈍器で殴り倒し、

泣き叫ぶ、母親の悲鳴をにも似た声を背に、家を飛び出していきました。
(殺したのか、そこは、はっきりわかりません)


そして、ますます、革命組織にのめり込んでいくのでした。

やがて、地下組織の中に、密告者がいて、

そのために、彼らのアジトをローマ兵に襲われました。

そのとき、彼は、剣で貫かれ、冷たい石畳の上に倒れ、死んでいきました。

彼の脳裏に、最後に浮かんだのは、家族でした。

この時代的背景は、ちゃんと、調べたことがないので、

なんとも、正しいのか、間違っているののか、わかりません。

彼を地下組織へ、誘ったものは、権威への、反発でした。

旧態依然とした、形だけのものへの怒りでした。

しかし、彼が心の底で、求めていたものは、家族との和解でした。

私は、その映像が流れる間、アントニーの意識に、なっていました。


長い年月を超えて、

親への怒り、

親との和解。

そして、自分を幸せにすること。


それを、かなえるために、

今、私は、ここにいる。


その自分への誓いと、約束があった。

同じ事を、繰り返しては、ならないと、

そう思うのでした。


ただの、夢物語なのかもしれません。

しかし、多くの符号の一致を、見ると、

アントニーは、確かに、存在し、その時代を生きていたと、

私は、思うのでした。

そのビジョンを見た時の私は、ただ、泣いて・・・

泣くだけでした。





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長所と短所・・・学校話
2008-11-10 Mon 10:11
娘が、推薦入試のための、面接対策のために、原稿を書いているのを、
見せてくれました。

「私の長所と短所って、なに~?」と、毎晩、悩む娘でありました。

面接指導が、個人的に、学校でも行われていて、
長所は、書いていいけど、短所は、下手に書くと、
突っ込まれたりするので、思い付かなければ、
「無い」と、書きなさいという指導があったそうです。

それって・・・あほちゃうか・・・

学校の教諭って、そういう発想なんだなあと・・・
いや、たぶん、日本の学校教育全般が、そういうもんなのだろうと、
思われます。
短所が無い人間って、存在しないだろう。

また、将来、どのような保育士になりたいかという項目では、
娘「子どもと同じ目線で、子どもの気持ちをわかる保育士になりたい」と、
言った娘に、がっこの先生は、「子どもと同じ目線ではだめだ」と
クレームが入りました。
子どもと同じ目線では、指導者として、成り立たないということらしい。

あほか・・・


でも、娘は、そこは、譲れない。
それって、そもそも、発想の根本が、おかしいと感じたらしい。
さすが、あたしの娘!

自分の高校の特色をあげよ、という項目では、

挨拶がよくできて、先輩後輩の仲が、よく
少人数制で、レベルに合わせて、勉強ができるところです。

と、模範解答を書いていた。

確かに、挨拶運動なんか、盛んな学校で、
先輩後輩の仲がいいというのも、本当だしね。

求められている、学生像は、明るく元気で、明朗会計(?)で、
先生の言う事をよく守り、というところでしょうか。

学校規則には、そこに、自立と自律が、確か、謳ってあったっけ。

私には、先生の指導に従順で、言う事を聞く生徒が、
自立した人間になるとは、考えられんのですよ。
自分の頭で考えるな、と言いながら、自立せよと、
その矛盾が、理解できないのだった。

まず、子どもの気持ちをわかる先生だと、指導者として、
失格だと、思ってる先生。

わかって、何が悪いのだろう??
子どもが、わがままに、なるとでも、思っているのだろうか?

娘が、こっそり、言うのだった。
先生の8割が、腐れている・・・と。

そんなこと、面接で、言えないしなあ。

彼女の、悩ましい、面接対策は、あと、5日で、本番を迎えるのでした。



昨日から、

娘「明日、朝課外は、休むから、普通の時間に行くよ」

母「うん、わかった、電話いるかいな?」

娘「もう、いらんよ~」

母「了解っす」

理由なんて、聞かない。
娘が、自分でわかっていればいい。


大人って、力でおさえこんだら、大人としての役割が済むって、
思っているところがある。

そうやって、「自律」しなさいって、言う。

無理だよ。

そんな、ブレーキとアクセルを同時に踏むようなこと、
できるわけがない。
パワーゲームだね。

子どもって、大人の生きる姿を見ているんだよ。
見られてますよ、先生。


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【エクササイズ物語】18.餓鬼と新しい導きの手
2008-11-08 Sat 00:00
【当時の記録より】

Tatsuさん→りんりん

おさない りんちゃんが、光の世界にかえることが、
いやな人たちがいます。
りんちゃんの「虚無」を信じる心は、
地獄のエネルギーの一つの供給源だからです。
それが、ひとつなくなることが、いやな人たちがいます。


***********************


虚無とは、今、多くの現代人が心に抱えているもので、
その日暮らしで、生きる意味が、わからず、
死んだら、終わりだという、唯物論に侵された
からっぽの心のことだと私は、理解しています。
中には、虚無をごまかして、享楽的に生きる人もいるでしょう。


ここで、地獄という表現がありますが、
想像の産物ではなく、実際の地獄のことを指しています。

虚無は、負のエネルギーですが、これを埋めるには、
負のエネルギーを超えるほどの、正のエネルギーを
注ぎ込めばいいのか?と、そのとき、私は、Tatsuさんに、問いました。
(と言っても、その方法さえも、知らなかったのですが)
しかし・・・

いや、たぶんね、その、学校に行く前、
お父さんが、お母さんを、包丁を持って、追いかけたとき、
あるいは、その頃の環境下でね、
きちんと、言葉で、考えたわけでもないと思うけど、
いったい、生きていくってなんなの? とね、
生きていても、いいことなんてないじゃない?
悲しいだけじゃない・・・
辛いだけじゃない・・
なんの意味があるの?
そんなにけんかするなら、
なんで、結婚なんかするの?
結婚になんの意味があるの?
なんなのよ・・
もう、そうでもいいよ・・・
どうでもいいよ・・
とね、思ったと思うんだよね。



という風に、自分の人生を、
生まれて数年で、投げやりに、手放さざるを得なかった
根本が、虚無につながっているのだろうと思われました。
それが、当時の、私の間違った信念となっていました。

しかし、反面、どうして、そのように、生きなければならないのか?
今、このように、苦しまねばならないのか・・・
自分の生きる意味を・・・その答えを、ずっと、ずっと、
物心付いたころから、探し続けていたのも、本当でした。
誰かに・・自分の存在する意味を教えて欲しかったのでした。
それは、心の飢えとして、乾きとして、
常に私を、苦しめるものでもありました。
本当に、虚無を信じているのなら、
苦しまなくて済んだはずです。
あきらめたまま、人生を、生きていたはずです。

そして、それまでの私には、私の中心となる、基盤が、希薄でした。
だから、誰かの役に立つことで、自分を立たせたりして、
自分の存在理由を確認するには、
依存という形を取らざる得なかったのでした。


りんりん→Tatsuさん

アドバイスに従い、現実的にも、精神的にも、
用心怠り無く、気をつけることにしました。
しかし、今の時点で、振り返ってみれば、
もしかしたら、5歳のチャイルドを見つけた時点から、もう充分に
邪魔されていたんじゃないかなあ と思うところもあります。。。
この「りんちゃん、黒玉救出大作戦」の後、次第に
体調と心の調子が、よくなり始めたことが、
とても嬉しく思われました。

付け加えていうならば、また、この日、別のプレゼントがありました。
夕方、興奮と感動の覚めやらぬ頭で、
ぼーーっと、半分あちらの世界に行ったまま、
台所に立って、夕食を作っていました。
ふいに、映像と思考がどこからか落とされたように
「子供との約束」がでてきました。
こちらも、ふいに、涙が、ダ~って 感じでして。
「そうか~、そうだったのか~」って、感情と心で納得できました。
うれしくて・・・。
 この日は、一日泣いてた日でした。
しかし、時間がたつにつれて、さて、球から出たものの、
先を考えると今後どうなるのだろうと予想のつかない不安もふくらみます。



そして、エクササイズは、続きます。

球体から、救出した後の最初の瞑想のことでした。

浅い瞑想状態に入ると、

いきなり、援助者である、ビューテさんから、告げられたことがありました。

ビューテさんが、言うには、

「今回、私が手伝えるのは、ここまでです。
これ以降は、別の方が、導いてくださいます」

とのことでした。

そして、ビューテさんは、去っていきました。

代わりに現れたのは・・・

がっちりした体格で、防具のような緑色のチュニックを身につけた男の人でした。

どこぞの兵隊?金髪っぽい、赤毛。

猟師?

武器は、持っていなかったと思います。

ローマ時代風だろうか?

名前をアント二ーと、名乗ってくれました。

ローマか、イタリアあたりでしょうか。

英語読みだと、アンソニーになりますが、

このとき、アントニーというより、アントニオと聞こえたような気がしました。
私は、とっさに、アントニオ猪木を思い出してしまって、苦笑しました。

恐らく、ビューテさんは、守護霊さまだろうと、思っています。
今でも、コンタクト取ろうと思ったら、可能です。
でも、このアントニーさんは、臨時交代の方だったようで、
今は、さっぱり、お会いできません。

ずっと、後に知ったのですが、
守護霊さんが、てこずるような案件であれば、
その上司にあたる、指導霊さんが、手伝うことがあるそうです。

恐らく、アントンさんは、指導霊さんだったのだろうと、思います。
今も、どこかで、忙しくされているのだろうと、思います。


当時の記録より、抜粋~


寡黙で静かなビーテさんとはちがって、

なんか・・・アンソニーさん、とっても陽気で、騒がしい、にぎやかそうな人です。

これって妄想ですか???幻覚?

でも、自分の中では、真実なんです。

私の貧困なイメージを借りて、守護者の方たちが、

イメージを送ってくれているんだろうと思ってますが。

あまりに貧困すぎて、申し訳ない気がしてます。はい・・・。

ビューテさんが言うには、自分ができるのはここまでだそうです。

これからは、このアンソニーさんに交代するって、言ってます。



  **************

瞑想部~


部屋の中に、5歳の餓鬼の姿の私だけが、

ボーゼンとした様子で座っています。

心が無いような、人形のような感じです。

アントニーさんが、ズカズカと歩み寄って、ひょいと

チャイルドを抱き上げました。

「きれいにしてやろうな」

そう言って、ウインクしてみせます。

この軽さには、ちょっと、救われます。

アントニーさんの腕に抱き上げられた、ちび私は、

ただの物体のようにぐったりしています。

そのまま、階段を上って、部屋の外へ出ました。

緑の原っぱの中に、木々が集まっているところがあり、

そこに小さな湖があります。

アントニーさんは、おしゃべりです。

「つらかったな~、おまえ」「よくがんばったなあ」「えらいぞ」と

チャイルドにしきりに話しかけています。

どうも、大人の私が出る幕はなさそうなので、アントニーさんの後を

ただ、付いていきました。

アントニーさん、湖の中に、そのまま、ジャブジャブと入っていきます。

そして、アントニーさん、服のまま、水の中に座り込み、チャイルドを

ゆっくり、水に浸します。

「ほら、気持ちいいだろ~」「いい子だ」と何度も声かけしているアントニーさん。

アンさんは、チビ私が、固まっているのを、ものともしてません。

ある意味、すごい人です。。。

「動」の、パワーのある人だと、感じました。

ビューテさんが、「静の人」であるならば、

アントニーさんは、その正反対の人です。


やたら、声をかけ、透明な水を、チャイルドにかけながら、

体を清めてくれています。

この湖は、どうも、聖水の力を持っている気配がしました。

大人の私も、一緒に、洗ってあげました。

長い間、二人で、それを続けました。



チャイルドの黒い手を洗っているとき、

黒い皮膚の下に、白い、ふっくらとした、手の色が浮き出てきました。

少しずつ・・・ほんの少しずつ。

やがて、どのくらい時間がたったのか、

チビ私の、ぎょろぎょろした大きな目から、

大きな大きな大粒の涙がぽろぽろとこぼれてきました。

そして、口を開けて、「あー、あー」とかすれた声を絞り出し

声を上げて、泣き始めました。



チャイルドになってみました。


その心は、悲しみだけしかありませんでした。

「できなかったよ」という気持ちで、張り裂けそうでした。

ごめんねって・・・できなくてごめんなさいって、

それだけで、心がいっぱいでした。

心は、号泣していました。

天にも届くような、悲しみで、泣いていました。




大人の私にもどりました。

精一杯の気持ちをこめて、

ほとんど叫びに近かったんですが・・・チビ私に向かって言います。


「あんたの責任じゃない」


「謝る必要は、これっぽっちもない」


「あなたは、小さな小さな子供なんだから」


「これからは、一人じゃない」


「私たちが、幸せになろう」


「幸せになっていいんだよ」


他にも色々言ったと思います。。。でも、覚えていません。

アントニーさんも

「ばっかだなあ、自分を責めても、誰も幸せになんかなれないって」

とか、笑いながら、言っていました。

口は悪いけれど、アントニーさん、結構、いいです。

言葉が、とても、力強く、暖かいのです。


そして、アントニーさん、「おれ、今日は、そろそろ、帰るからな」とか言って、

その場から、去っていきました。


私とチャイルドは、湖の中で、二人きりになりました。

今度は、チャイルドを大人の私が抱っこしてます。



「ごめんね、ずっと一人にして。これから、いつも一緒にいるんだよ」


私も心から謝りました。

チャイルドは、今度は、大声を上げて、しっかりした声を出して、

わーわーと泣き始めました。

草原中に響き渡る、泣き声でした。

「まってたんだよ。ずっと、待ってたんだよー、待っても、誰もこなかったんだよー」

泣きながら、そう、訴えています。

大人の私はチビ私の、髪が無い頭をなで、こけた黒いほほをなで、

棒のように細い腕をなで、しっかりと抱きしめながら

「大丈夫、よしよし。ここに居るからね」と何度も何度も言います。

かなり時間経過後・・・・少し、ちび私、落ち着いたように見えました。

落ち着いたところで、

再度、アントニーさんが現れた。

何やら忘れ物をしたとか・・・。

「忘れてた。これを渡すの」

そう言って、こぶし大くらいの大きな透明な水晶を

チャイルドにポンと渡したのでした。

チャイルドは、手に渡された、輝く水晶にうっとり見とれている。

「おまえを守ってくれるからな。大事に持っておけよ」

ということらしいです。

ひどく人間くさい援助者です。。。

守りの象徴としての意味でしょうか。

アンさんがいなくなってから、また、しばらく二人で過ごしました。

チャイルドは、少し人間らしくなってきたように見えます。


感情を吐き出せたので、少し楽になったのでしょうか。


そして、チャイルドが、洋服を着てないことに。。。気づきました。

大人の私はシンプルなワンピースをチビ私に着せました。

チャイルドは、不思議な顔をしています。

そっか、洋服を着たのは。。。何十年ぶりなんだ。。。

何か欲しいものはないかと聞くと、欲しいものがわからないと言う。

そうだよね・・・



今夜の瞑想は、ここで終わりです。

かなり長時間にわたったので、集中が途切れ始めました。

このへんで、現実にかえりました。

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【エクササイズ物語】17.不登校とインナーチャイルド
2008-11-07 Fri 10:42
そのころ、KAIは、適応指導教室へ通いだして、半年たっていました。

順調に通っていたかと思うと、ぱたりと、朝おきてこなくなる。

リストカットは、しなくなったものの、気分の起伏は、まだまだ、大きかった。

相変わらず、時折、幻聴が聞こえたり、得体のしれないものが、視えたりも、していた。

教室は、気が向いたら行くという感じだった。

それでも、半年前より、ずいぶん、落ち付いてきた。


私自身は、不登校と、親のインナーチャイルドの癒しは、

つながっているんじゃないかと、ぼんやりと、感じはじめていた頃だった。


私が、自分を掘り起こして、自分の起源に、向かい合い、

癒しがはじまれば、KAIも、時差はあるものの、

楽になってきているように、感じたのでした。

それは、理屈ではなく、体感だった。

それらの、体験が、この方向は、間違っていないと、私に確信を持たせた。


なぜ、そのようなことが、起こるのだろうか。


親の中の解決されない問題というものは、

本人だけでは、さっぱり分からないものです。

これまで、「こうやって生きてきた。だから、これからも、そうだ」という

信念が、心の中には、作られているものです。

その信念によって、

人との関係性は、作られるのだろうと思います。

たとえば、「人を信頼してはいけない」

という、幼いころからの、信念が、無意識にあったとする。


そうすると、基本、人間関係は、「不信」が、もとになります。

人に接する時、顔は笑っていても、心は、疑いの渦があったり、

その不信ゆえに、「子供は、指導せねばならない」という、

さらに、上塗りの、仮面がつけられることになります。

二重三重の、信念が、相手を苦しめていることに、なるのだろうと思います。

だから、見守ること、の意味が、さっぱり、わからないのだと思うのです。

さらに、世間の常識的な枠にはめられ、

より一層、親の側の信念は、ステレオタイプになっていくのでしょう。


見守るということは、相手を信頼せねば、できないことですね。

たとえ、失敗や、間違いでさえも、「大丈夫」と、後ろで、温かく支えることです。

相手の経験や体験を否定せず、

ひとりの人格として、支えるということだろうと思うのです。


インナーチャイルドの癒しは、この

幼いころから培った、「間違った信念を、打ち崩す」という作業でもあります。


しかし、最初から、このような、考え方が出来たわけではありませんでした。

やはり、人並みに、悩みましたし、

子どもを動かそうと、無駄な努力もしました。



相手を動かそうということ、

それは、自分の中の、「信念」がそうさせていました。


・学校は、子どもの心の健康を損なっても、行かなければならない

・子どもは、学歴が大事

・成績優先

・子どもへの世間の評価は、親への評価である

・自分の好きなことをすることは、悪である

・楽しんだらいけない

・この世は、誰も信用できない

・ひとりぼっちだ

・休んだらいけない

・甘えたらいけない

・わがままを言ったらいけない



他、もろもろ。。。


最後の、わがままを言ったらいけないということは、

結局、自分の気持ちを押し殺すことに慣れてしまい、

甘えと、わがままの区別がさっぱりつかない状態になります。


不登校の方々が、言います。

「どこまでが、甘えで、どこまでが、わがままなのか・・・」と、途方にくれます。


私も、かつて、そうでした。

その言葉が出てくる時点で、すでに、自分の今までの価値観では、

もう、どうにも、立ち行かないところにきているのだということを、

やっと、気づかされたのでした。


甘えたい気持ち・・・大人でもありますよね。

その気持ちを、ずっと、押し込めて、

必死に、親たらんとして、「りっぱに、がんばって」きた親たち。


こんなに、私は、自分をいじめてきたんだなあと、

インナーチャイルドのエクササイズを通じて、改めて、感じました。


自分を大切にすることって何?

甘えるって、何?

わがままって、何?





いつだったか・・・

KAIの、インナーチャイルドに、接触したことがありました。


彼も、私も、まだ、人の形をしていない、光のかたまりでした。

「約束だよ」

彼は、明るく、からからと笑いながら、

私と、親子のちぎりを約束したのでした。


余談ですが、

ソウルメイトという言葉がありますが、

何か勘違いされている方も多いのですけれど、

とても、気のあう人や、運命の人だけが、ソウルメイトではないのです。

魂のグループで言えば、何度も転生しながら、

親子も、夫婦も、グループで切磋琢磨している、魂群なんです。

そして、同時代に生きて、出会う人々も、大きな魂群なのです。

そういう意味では、

かつて、私は、イランに生まれて、コーランを読んでいたかもしれない。

アフリカで、槍をなげて、暮らしていたかもしれない。

インディアンで、きつねの皮をはいでいたかもしれない。

ローマで、娼婦やってたかもしれない。

(そういう意味では、戦争って、ほんと無意味ですね)


だから、今、子供をやってくれている子どもたちは、

かつて、私の親だったかもしれません。

魂の格でいうと、(魂にも、学びによって、ランクがあるらしいです)

私より、ずっと、上だったのかもしれません。



そういうことを、価値観のどこかに入れると、

朝、起こしてもおきないとか、

学校へ行かない、行かれないとか、

それくらい、どうってことないですよ。


生きて、出会い、

互いに、学びを深め

こころからの笑顔で、

お互いを讃えあい、

自分を大切に、丁寧に生きていきたい、

そう、思うのです。

そういう子たちが、道を間違うとは、私には、決して、思えません。



【追記】

不登校というと、兄弟での不登校、親戚同士の不登校、
多いような気がします。
うちでも、高校で,姉の方が、行き渋り、ありました。
でも、「いいよ、ゆっくり、休み~」と、
あっさり、言ってました。
明日は、行けるかどうか、私が聞くことも、しませんでした。
それは、本人が、きめるに、任せていました。

高校での出席日数は、小学校、中学校より、
数倍、シビアな部分が大きいです。

それでも、「いいよ」と言ってやれたのは、
KAIとの学びのおかげです。

学校より、心が大事。
あなたが、大事。

娘には、そう伝わったでしょうか。



あなたが、何よりも大事だよ。

あなたの意思を尊重します。






そういうメッセージを、常に送っていたい親でありたいと思っています。

そのためには、まず、自分の間違った思いこみに、気づくことでしょう。


さて、学童前期の物語、まだまだ、続きます。

いつも、読んで頂いてありがとうございます。

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職場にて
2008-11-07 Fri 00:27
明日、お休みなので、今日の夜から、

「歩いていこう」の下書きをしようと思ったのですが。。。

朝から、嫌なお客に当たって、1日のエネルギーを

すべて、吸い取られてしまいました。

だめだ・・・

はうっ。。。




こんなとき、

ゆがんだ波動を整えるために、

光をもらいに、行くブログが、2つあります。

ブログや、メールでも、波動って、あるんですよ。


光のkimiさんとこと、

Tatsuさんの、昔、昔のブログです。

日記を読みにいくというより、

その言霊から出る、パワーをもらいにいくだけなんですけどね。


もう少し、自家発電、できるようになりたいもんです。



に、しても、言われのない、クレームを言いに来る人は、

どうして、さびしがり屋が多いのでしょう。

本人たちは、自覚がないのでしょうけど。


魂が、さびしい、さびしいと、言ってます。

そして、怒っています。


だいたい、60前後の男の方が圧倒的に、多いです。


家族は、あるのでしょうか。

子どもは、いるのでしょうか。


そんなことを、考えていたら、

少しくらいのエネルギーなら、あげてもいいか・・・と、

ちょっと、やさしい気持ちになりました。


満たされなかった、幼い子が、

60を過ぎてもなお、

駄々をこねているんです。




そして、このようなブログに、見境なく、エロサイトを貼り付けていく方々。

そういう生き方を、本当に、したかったのですか?

満たされないものは、

「物」では、埋められないのです。



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【エクササイズ物語】16.チャイルド同士の対話(2)
2008-11-03 Mon 00:00
[登場人物]

たっちゃん→Tatsuさんのチャイルド
りんちゃん→りんりんのチャイルド





りんちゃん


わかった

それが きみのほんしんだね

こころのおくそこからながれでる

ほんとうのねがいに

ふたをすることは

とても くるしい


それが きみの

どろみずのなかのくるしさなんだね


さぁ りんちゃんに

とっても つらい ことばをおしえるよ

いまのきみにはとても つらい

だけど

しんじつのことばだよ


てんちいっさいのものと わかいせよ





このよのすべてのあるものと

あやまるべきはあやまり

ゆるすべきはゆるし

ゆるされるべきはゆるされ

ほめるべきはほめ

あいするはあいし

すべてのものとなかよくしなさい


そういういみだよ


これが、かみさまのねがいだよ

そして きみのこころのおくそこのねがいでもある

そうしたいのに できないとき

これはくるしい

ああ とじこもりたくもなるね


さぁ でも ひかりのおうちにかえるよ

そんなくらいせかいにいちゃだめだ

そんなかなしいことなんてない

きみはよくても

たくさんのひとが かなしんでいる

かみさまも

たくさんのおともだちも

そして

だれより ぼくが かなしんでいる

ひとをかなしくさせないことが

ひとをしあわせにすることが

りんちゃんの

ほんとうの ほんとうのねがいでしょ?

こころのおくにきざんだ

かみさまとの

じぶんとの

そして ぼくとのやくそくでしょ?

じゃぁ そのために そのために

きみは ひかりのせかいに

かえらなくてはいけないよ


でも どうしたらいいかわからなかったんだよね

だから ずっと くるしかったんだよね

そうか そうか

それなら ぼくが おしえてあげるよ

どうしたら ひとを しあわせにすることができるかを


まずだいいちに

りんちゃん

まっくらな「きょむ」を信じてはだめだ

きみのいる そのせかいは 「おもいのせかい」なんだ

じんじたとおりのことがおこる

まっくらでくらい無のせかいにとけこむことをねがってはだめ

それは 「きょむ」を信じていることとおんなじだ

それは なんのはんたいかしってるかい?

「かみさまをしんじること」のはんたいなんだ


かみさまは ひかり

かみさまは あたたかい

かみさまは やさしい

かみさまは うれしい


だいじなことは そのひかりを信じることだ


そうか りんちゃんは

こどものうちに

おとうさんとおかあさんを

なかよくさせるぞ!



きぼうをえがいてうまれたんだ

そのために

おさけをのんであばれるおとうさんと

そのおとうさんとなかよくできないおかあさんをえらんで

きっと このむずかしいもんだいにとりくんで

こどものうちに

あかるさをふるまって

まわりをかえてみせるぞ!



けついして うまれたんだ


りんちゃんは やさしい

それは とても すばらしい てんしのねがいだね

そうか

でも できなかったんだ

それは りんちゃん

しかたがないよ

うまくいかないときだってある

ちいさかったんだから

そんなにじぶんをせめることはない


そして でも

いまからだってまにあうよ


ひとをしあわせにするほうほうをまなぶんだ

そして

おとうさん おかあさんを

ふれあうまわりのひとのことを

しあわせにしよう


そのためのだいいちのほうほうは

「きょむ」を信じることでなく

「かみさまを信じること」

なんだ


そして

だいにのほうほうをおしえるよ

ひとをしあわせにするためには


「まず じぶんがしあわせになること」




おとうさんとおかあさんがけんかしてばかりで

とてもつらかったね

りんちゃん とても いいこ

そのけんかのげんいんを

じぶんのせいだとおもったんだね

それだけでなく

なかよくさせられないことさえ

じぶんのせきにんだとおもったんだ


そう

おとうさんもおかあさんも

どうやってこどもを育てたらいいか

わからないこどものままだったんだ

そんななかで 

ずっとたえて えらかったね


でもね

りんちゃん

りんちゃんのいるせかいは

やっぱり

おもいのせかい

なんだ


りんちゃんが


とじこもってひとりでいたい

じぶんなんかだめなんだ

いないほうがいいんだ


そうおもうきもちが

どろみずになって

はいのなかにはいってくるんだよ


それはね

みんな みんな

おもいのなせるわざなんだよ


いばしょがないとおもいつづけるかぎり

いばしょはないし

わたしがいないほうがいいと

おもいつづけるかぎり

りんちゃんは

ひとりぼっちなの


りんちゃん

りんちゃんがきずついたときの

このよのせかいでは

たしかに席にはかぎりがあってね

その席にはひとりしか すわれない


でもね

こころのなかのせかいは

えいえん



むげん

なんだよ


席はたくさんある

かぞえきれないほど

たくさん たくさん


だから しんぱいしなくていいよ

おもうぞんぶん

りんちゃんは しあわせになっていいの

わかる?

ひとの席をとらなくても

席はちゃんとあるの

いばしょをむりしてつくらなくても

いばしょはたくさんあるの


さぁ イメージしよう

こころのなかで

おもいえがくだけでいいんだ

もといたせかいを

おもいだすだけでいいんだよ


もといたせかいだよ

ぼくたちがもといたせかい


あかるくて

たのしくて

さわやかな5月のかぜがふく

あたたかいせかい


ひろいみどりののはらに

たくさんの花咲きみだれる花

青い空


そして

いすをイメージしよう

白いいす?

ようちえんの木のいす?

ほら

のはらにたくさんのいすだよ

むげんだよ

ちへいせんまで

ずっとつづいてる

たくさんのおともだちが

わらって

にこにこ すわっているよ


みんながすわっても

すわりきれないほど

いすはたくさんあるんだ


いすを あたらしく つくることだってできる


だから りんちゃん

ひとを幸せにしたいなら

まず 自分をしあわせにしよう

りんちゃんがしあわせになっても

だれもこまらない

ううん

それどころか

りんちゃんがしあわせになることが

ぼくはうれしい


ほらね

りんちゃんがしあわせになったら

ぼくがしあわせになる

ひとりしあわせにすることができるでしょ?


そして、そのしあわせはじゅんかんするよ

どんどん どんどん ふえていく

りんちゃんがしあわせになれば

りんちゃんのまわりのひとがうれしくなる

そして そのまた まわりのひとが

どんどん どんどん うれしくなる


ひかりはふえる


それは すわれる席をふやすことをおんなじだよ

さぁ しあわせをふやそう

ひかりをふやそう

だから そのためのほうほうのにばんめは


「じぶんがしあわせになること」だ


そして 3つめの

ひとをしあわせにするためのほうほうはね

自分をしあわせにして そのしあわせになるほうほうを

「他のだれかにおしえてあげること」

なんだ


まず

りんちゃんが

どろみずのせかいから

光のせかいに帰ることだ


そしたら

どうしたら

くらいせかいにいるひとが

あかるいせかいに帰れるか

その方法をおしえることができる


おとうさんもおかあさんも

みんなみんな

こころのなかに

くらいせかいにとじこめられた

いまの りんちゃんとおなじこどもがいるんだよ


いまの りんちゃんのまわりにも

めをこらせば

たくさんのこどもたちが

くるしいおもいでねむっているはずだよ


そんな かなしいことなんてないよ

どうしてそうなっているかわかる?

みんな みんな

「きょむ」を信じているからだ


それは ずっと ずっと つづいてる

とおいむかしから つづいてる

ぼくもそこにいたことがある

でも ひかりのおうちにかえったからね

だから

ぼくは 帰りかたをおしえることができる

そのために

ほかのひとに 帰りかたをおしえるために

りんちゃんもぼくも

いちどは そのせかいにいかなくてはならなかったんだ


ぼくは このいのちつきるまで

いや いや 

ぼくがこのよでいのちをうしない

あのよのせかいのかえっても

あのよのせかいでも

そして また うまれかわっても

ぼくは ずっと えいえんに

その「きょむ」のせかいをなくすためにどりょくする


それが

ぼくが かみさまとかわしたやくそく

そして きっと

りんちゃんが

かみさまとかわしたやくそくだ


まだ まにあう

さぁ そこから でておいで

ひかりのせかいに

かえるじゅんびをするよ


おとなのりんちゃんの

ひかりたちのぼる

ひらいた手をつかんでごらん


こころのなかの せかいは ひろい

こうだい



えいえん



むげん


このひろい花咲きみだれるみどりのそうげんを

しあわせなこどもたちで

うめつくすんだ




Tatsuさんのチャイルドから放たれる、言霊が、

私の中の子どもに、ひとつひとつしみ込んでいった。

手紙を読む声が声にならなくなり、

手紙が、涙で見えなくなった。

ひとつひとつの文字を心に刻みつけるように、

子どもに言い聞かせるように、

やっと、読み終わった後、私は、号泣した。

欲しかった言葉が、ここにあった。

誰かに言って欲しかった言葉が、ここに、あった。

手紙から放たれる、厳しくも、慈愛に満ちたエネルギーが、

大人の私にも、しっかり、感じられた。

これが、高次の波動なんだと、

そのすさまじい力に圧倒された。



チャイルドの瞑想~当時の記録より~

(ほぼ、実況中継に近い報告です)


手紙を声に出して、子どもに読み聞かせるように、

ゆっくりと読み上げはじめると

球の中が見え出しました。

中で、必死でもがいてる様子が伝わってきた。

苦しい。息ができないって。

息苦しさが、伝わってくる。



やめろって。

こっちも、苦しい。

動悸が伝わってくる。


かまわず読み続ける。

チャイルドは、地獄で見る、「餓鬼」の姿してます。

真っ黒なからだ、

骨と皮。

髪の毛はほとんど無い。

すごい顔・・・目玉がぎょろぎょろして、こちらをにらんでいます。

(映像的には、すごいものがあります)


私は、助け出そうと思い、

どこからかハンマーを持ってきて(思いの世界ですから)

球を割ろうとしました。



しかし、いつの間にそばに立っていた援助者ビューテが

「自分で出てこなければならない」と言い、それを制止されました。


でも、苦しいよ。息ができない。。。どうしよう・・・




手紙読み続けます。



「ひかりのせかいにかえる」という呼びかけに応じるように

チャイルドの骨ばった黒い手が、球を突き破って、ぬっと出てきます。

私は、チャイルドの手をつかみます。


でも、力がたりない。


援助者も一緒にひっぱってくれました。

だめだ。。。

どこからか、小さな男の子が、あらわれました。


小さな、たっちゃんでした。

は、はじめまして・・・

どころでもなく、


一緒にひっぱってくれました。


チャイルドが、もがきながら、少しずつ、球から出てきます。


最後に、思い切り引っ張ると、球が、はじけ、壊れます。


泥水があたり一面にとびちります。


出てきたチャイルドは、どろ水をかぶったまま、


咳き込みながらすわりこんでいます。


私は、チャイルドの容貌が、怖くて、近寄れません。



たっちゃんが、バスタオルを持ってきて、

ふいてあげています。

私も、それにならって、いっしょにふきました。


とても人間とは思えない、真っ黒い骨の妖怪のようです。

出てきた嬉しさは、もちろんですが、それ以上に、その姿に、圧倒されてます。



報告は、ここまでです。


力仕事をしたので、非常に疲れました。

今回は、これ以上、集中できません。



あ、たっちゃんにお礼も言わず。。

しかも、瞑想の中に置いてきてしまいました。。。。

ごめんなさい。

手伝ってくださって、ありがとうって、伝えてください。

この続きは、夜に再度、瞑想します。



やっと、スタート地点です。







もう、大丈夫。

心から、愛してあげてください。

きっと、きれいな、天使の姿にもどるよ。






~おまけ~


孤独地獄について

T:孤独地獄 って知ってますか? あるいは、
土中地獄とか?

R: 知りません・・・無限地獄みたいな感じでしょうか?

T: 人に関わりたくなくてね、 孤独になりたい人、 土の中に、もぐって、一人きり、
そうした地獄の世界 を、連想させますね・・・


このころ、Tatsuさんと、こういう話をしたことがあった。

なにせ、霊的知識がなかったので、

「地獄」というのは、

単に、悪い状態の象徴で、比喩の表現だと、

私は、思っていた。

恐らく、黒い球体のチャイルドと聞いて、

地獄とのつながりを、彼は、すぐさま思い浮かべたことだっただろう。

そして、見事に、私は、地獄と深い関係にある、餓鬼の姿のチャイルドを

自分の中に、見出してしまったのだった。


斎藤学のとあるAC本に、

インナーチャイルドが、人の姿をしておらず、

黒い影に見えたりする人もいると、書かれているらしいです。

この状態は、決していい状態では、なく、

乳児期に心が傷ついた人に、多く見られるようです。



そのことを知ったのは、この少し後の話でした。

当時、知らなくて、良かったのかもしれない。

そう思った。



チャイルドは、黒い球体から出てきましたけれど、

これら一連の行動は、子宮から生まれ出る赤ちゃんが、連想されます。

私が常日頃から、「帰りたい」と望んでいた場所を

間違ってしまっていたようです。



* どうぞ、私の記事に、共感され、かつて、心に傷を負った方がいらしたら、
  このチャイルドへの手紙に、自分の幼少時代に呼ばれていた
  愛称をいれて、声に出して読んでみてください。
  自分のために書かれたメッセージだと思って、心をこめて読んでみてください。
  この手紙は、しばしの間、私自身を支える、大切な、大切な、門外不出の宝物でした。
  けれど、これらを、私が、ひとりじめする必要は、今、もうなくなりました。
  一人でも多くの方とシェアができたら、大変嬉しく思います。
  きっと、師匠も、同じことを、言うことでしょう。
       
 
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【エクササイズ物語】15.チャイルド同士の対話(1)
2008-11-02 Sun 00:00
決定的な何か・・・

と言われても、どこを振っても、何も出てこないまま、

数日過ぎていきました。


「わからない・・・」

また、お手上げか・・・



そう思い始めた頃、

ひとつの、言葉が、深いところから、つぶやきのように、

湧き上がってくる気配を感じました。

それは、日常の生活の中では、

見落としがちになるような、つぶやきでした。

もしかしたら、多くのインスピレーションは、

このように、捨てられてしまっているものなのかもしれません。


心静かにし、耳をとぎすまして

意識を、そこに同調させていくと、

ヒントとしての、高次からのインスピレーションは、

自然と、語りかけてくるものだろうと、思われます。


余談ですが、普通に仕事をし、家事に追われ、

夜は、ばたばたと、寝るだけの一日を過ごすことは、

どれほどのことを、失っていることだろうかと、思えます。

物質的に過ごすことは、霊的な波動のセンサーが粗くなります。

粗くなるということは、高次のエネルギーを受け取りにくい状態になるということです。

せめて、眠りにつく前の、祈りと、瞑想で、心を整え、

高次の波動に少しでも近づくことで、自分の波動を、あげることは、

呼吸と同じくらい、大切なことだろうと、今は、思っています。

反対に、地獄的な世界からのコンタクト及び、波動は、

どちらかというと、物質的な波動に似て、波動が、粗めです。


私の感覚では、なんだか、がちゃがちゃしている感じを受けます。

ジグゾーパズルのピースが、ちゃんとはまってなくて、

ごちゃごちゃしている感じに似ています。

(感覚的なことなので、表現しずらくて、すみません)

反対に、霊的に波動の美しい人は、ブログやメールでも、なんとなくわかります。


よく言われるのが、

疲れる=憑くということです。

せめて、眠る前くらいは、いい感じで眠る方が、いいようです。


しかし、高次の存在といえど、決して、魔法使いのように、万能ではありませんが、

常に、後ろから見守ってくださっていることは、確かなことです。


話、もどります。


~当時のメールより、抜粋~

赤色が、りんりん

青色が、Tatsuさん

>先ほどから、「約束」・・・「できなかった」・・・

という言葉が、浮かんできます。

>何の約束? と心の内に問いますが、応えはありません。

>これは、あくまで推察です。

>妄想だと、笑わないでください。

>生まれる前に、約束をしていたのではないでしょうか?

>両親と、神様と。

>そしてね、自分が生まれることで、

>両親に幸せになってねって、約束したのかな・・・・



これは、まさしく、そうです。




>その約束が、果たせられなくて、

>反対に、自分が生まれることで、両親の不仲が

>いっそう酷くなったように感じたのではないでしょうか。。。

>そのように思うと、

>「ごめんね」という思いが、大人の私の中から出てきます。

>それは、約束を果たせなかった両親やまわりに対する

>申し訳なさから出てきてるように感じます。

>そこから、球の中のチャイルドに、生きることへの無力感が生じ、

>自分が約束したことを、出来なかったという

>その悲しみから、逃げたかったのでしょうか。




これですね。

こちらが、核心ですね。


>もう一つは、A子さんとの関係。

>A子さんは、この10年、本当の親以上に、私の親がわりでした。

>その、A子さんは、「父親と似てるなあ」と、心のどこかで感じていました。

>以前、サークルを止める話をした時だったと思うのですが、そのA子さんから

>「ほんとに、ひとりぼっちになって、地獄を見るよ。それでもいいね!」

>と語気強く言われたことがひっかかっています。

>結局、そのあと、なだめられて、

>また一緒に頑張ろうということになったのですが。

>愛してくれるかわりに、何かを差し出さなければならないと私が思い込んでいたのですが、

>何かを差し出す・・・体は差し出すが、

>心は深いところで閉じ込めておこうと強く思っていました。

>そのとき、閉じ込めてしまったのか・・・

>そして、そのときの言葉どおり、ひとりで、地獄を見ているのか・・・・


>でも、これは、学童前期とは、時期が、ずれているので、関係ないと思っていました。

>A子さんと親が、この10年で摩り替わっているってこと、あるのでしょうか・・・。



りんりんさんの、A子さんへの気持ちは、

一種の「転移」なんでしょうね・・・


『分析治療が進むと、しばしば「転移」という現象が起きる』(byフロイト)

これは本来ある人物に向けられるべき無意識的感情が、

それとは別の人物に向けられることである。


ここで解説されているのは、

思慕の感情や怒りの感情を、

向けるべき相手ではなく、

自分や、別の誰かに向けてしまう心理現象のことなのですが、


結局、両親を幸せにするという約束を果たせなかったと悔い、

そして、あきらめ、

しかし、その感情は、

無くなったわけではなく、

抑圧されて、

両親ではなく、

別の人、つまり、A子さんに向けられたのでしょう。

だから、離れたいという気持ちと、

役に立ちたいという気持ちが、

交錯するんだね。


それは、やっぱり、

両親への視線をそらさず、

幸せにしたい、役にたちたい、

という気持ちは、

正しく両親に向けられなくてはいけないね。

そして、

生きている限り、

その実現に向けて、

精一杯努力すべきでしょうね。





この、Tatsuさんからのメールを読んで、

私がどのように、感じたのか、正直に書きましょう。



打ちのめされました。



何よりも、「両親を幸せにすることに、全力を注がなければ」というメッセージに

心が、どよめき、ざわざわしました。

猫でいえば、総毛立つ、ですね。


「嫌だよ」という、気持ち、

それと同時に、

「やっぱりなあ」という気持ちがいっしょに、沸いてきました。

両親との必要以上の接触は、したくない思いでいっぱいでした。

気持ちが、大きくざわめくということは、

この指摘は、的確に的を射抜いていました。

私が、一番、見たくないものでした。


また、A子さんとの関係に、両親と同じように、依存、共依存を、持ち込んだことも、

納得ができた気がしました。

だからこそ、古いバージョンは、捨て去り、

新しいバージョンを、取り入れる必要性を、

理性では、納得できたのでした。





A子さんとのこと。。。「転移」ですか・・・

・・・そうかもしれないです。

今日一日ぼんやりと、考え、瞑想していて、

A子さんのことが、しきりに出てきました。

(↑まだ、上のメールの返事をもらってない状態でのことです)

どうして、5歳のチャイルドにA子さんが関係するのか

結びつかなくて、困っていました。

結局、A子さんを通じて両親への約束を思い起こすことが、

今日のエクササイズだったのだと思います。



かなり、打ちのめされ、しかし、なお、理性的であろうと、

必死に、書いたメールでした。


理性では、わかる。

でも、心の内側から、湧いてくる気持ちは、

相当の反発。

納得、できない!という、チャイルドの、突き上げるような怒りでした。

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【エクササイズ物語】14.ゼロサムの世界
2008-11-01 Sat 00:00
黒い球体の子は、当時の不安定な「私」、そのものでした。

あたしは、黒い球体のチャイルドの気持ちを、そのまま手紙に書いた。


チャイルドが訴えてくる言葉を、

思いつくまま、自由に紙に書き出した。



当時の、走り書きより(あたし)→


この世のなかに、あたしは、いちゃいけない。

その証拠に、あたしのまわりに、幸せな人はいない。

それは、きっとあたしが、ここにいるからなんだ。

あたしがいると、だれかの気持ちに負担をかける。

あたしがここに生まれたことで、みんなに迷惑かけちゃいけないんだ。

それなのに、あたしの肉体は、だんだん大きくなる。

恥ずかしいくらい、成長していく。

成長を止めたくても、あたしにはできない。

生まれる前に、戻りたいって、思っても、もう、戻れない。

だから、あたしは、息をとめて、この中で眠ることに決めたよ。

あたしの肉の滅びが訪れるときまで、あたしは、ここで、じっと我慢する。

ここは、何も聞こえないところ、何も考えなくて、誰も傷つけないですむところ。

ときどき、呼ばれたような気がして、呼吸をしようとすると、黒い泥水が、口の中に入ってくる。

肺の中に、泥水が流れ込んで、息が出来なくなる。

怖くて、くるしくなるから、また、息を止めて、眠る。

だから、あたしを起こそうなんて思わないで。

あたしを呼ばないで。ここがいいの。

あたしは、世界の秘密を知っているよ。

あたしがいると、この世界が、ゆがんでしまうんだ。

だからね、あたしの居場所なんて、いらないんだ。

そんなもの、最初から無かったんだし、これからも無い。

満員のエレベーターに、「ごめんね、ごめんね」と言いながら乗り込んで

「ブー」と定員オーバーのブザーが鳴る。

ほら、あたしが降りると、エレベーターは、動き始める。

次のエレベーターも、私が乗れるところは無い。

あたし以外の人が乗った方がうまくいくんだ。 

あたしは、もう、乗らないって決めた。

あたしがいると、世界がうまくいかないんだ。

ダレカが、ほんの少し、席を譲ってくれることもあったよ。

でも、そうしたら、他の人の居場所がなくなっちゃうじゃない。

あたしのせいで、誰かが居場所を無くすなんて、それこそ耐えられないよ。

あたしみたいなものは、あたしひとりでたくさん。

自分で居場所を作れって、言った人もいたよ。

でも、そうしたくなかったんだ。

だって、この世界にあたしの居場所なんか、最初から無いってこと、知ってるもの。



こんなところより、あそこに、帰りたいんだ。

宇宙に溶け込んで、無になってしまいたいんだ。

ここは、あそこより、狭くて居心地わるいけど、外の世界よりずっとましだよ。

だから、あたしを起こさないで! 苦しくなるから。

このままでいいから。

私を揺さぶるもの、すべてが、うざったい騒音。

ここが、一番楽なの。




Tatsuさんより→

ひとつ、先に、答えを出しておきましょう。


まず、昨日のお手紙の件で、

自我なる りんりんさんに、お伝えしておきますけど、

お手紙の内容の中核は、

「ゼロサム」思想なんです。

つまり、この世というのは、

限られた「パイ」の取り合いの世界である。

という考え方です。

これは、共産主義等の中核となる、

非常に地獄的な思想なのです。

これが、

チャイルドの心と、

地獄の世界を結び付けています。

「ゼロサム」

つまり、

パイは限られているのだから、

自分は幸せになれない、

なってはいけないという考え方と、

「ゼロサム」

なのだから、

人を攻撃し、排除し、殺戮し、

自分のものにするしかない、

しても良いのだ、

という、

極端な行動がでてきます。


本来の世界は、

光の世界は、

もちろん、

「ゼロサム」

ではありません。

永遠で、無限の世界です。

だから、争いがないのです。

でも、それでは、

魂の修行にならないので、

有限の世界に生まれてくるのです。

これが、ひとつの真実です。


そして、

もう一つは、

この世も、

一面は、確かに、

「ゼロサム」であることも真実ですが、

本当は、

そうではありません。

知恵、

のある人がでてくると、

「パイ」は増えるのです。

増やすことができます。

パンがひとつしかなければ、

取り合いになりますが、

知恵のある人は、

麦の植え方を工夫し、

少ない材料から、

たくさんのパンをつくることを考え、

その結果、

たくさんの人を、

幸せにすることができます。

そのために、

人は、

この世で、

「ゼロサム」

をこえるために、

工夫し、努力し、学び、

発展するのです。

そうやって、

この地上は、

限りなく、

あの世の光の世界に近づいていきます。

その努力をすることが、

また、

かみさまが、

この世をつくった意図なのです。



このゼロサム思考というものは、はじめて聞く言葉でした。

大人の自我である私は、この説明から、よくよく、理解できました。


しかしながら、チャイルドは違いました。

チャイルドは、大人と違って、感情の生き物です。

理性的な大人の自我が、左脳であるならば、

感情で動く、チャイルドは、直感の、右脳です。

チャイルドは、このゼロサム思考では、納得しないだろうということを、

Tatsuさんから、伝えられました。

確かに、その証拠に、チャイルドは、うんともすんとも、動く気配がありませんでした。


やれやれ・・・

当時の記録を見れば、面白いことがわかります。

大人の自我と、チャイルドの「あたし」が、交錯しているのですね。

それが、当時は、あまり、自覚もなく、

今、読み返して、「あ、これは、チャイルドだな・・」と、

まるで、子供が、親に何度も確認と、承認を求めているかのような

文章が、いくつも、いくつも、混ざっていました。


恐るべし・・・チャイルドです^^;

後で読み直すはめになる、大人の自我のことも、

少しは、考えてほしかったです。。。はい。




結局のところ、インナーチャイルドの癒しとは、

感情的に、納得していないチャイルドと、

大人の自我との統合なのだろうと思えます。


暗い場所に、忘れられ、置き去りにされた、子供を、

白日のもとに、見出だす作業なのだろうと思うのです。

その繰り返しが、「統合」という結果をもたらすのだろうと

思うのです。

影と光の統合は、古来より、物語の手法に使われていますけれど、

昔から、陰陽、男女、月陽

それらの源は、みなひとつであり、

仏の光の一部であるということを、

人々は、遺伝子レベルで

無意識にも、知っていたのであろうと、思います。



さて、その後、「あたし」である、チャイルドには、

まだ、何か・・・・隠された決定打が、あるんじゃないかと、

Tatsuさんから、示唆されたのでした。

これだけでは、チャイルドは、納得しないだろうということを、

彼は、前もってわかっている気配がしました。



一体、それは、何なのか・・・

また、謎が増えてしまいました。

再び、困りはてた私でした。



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