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author : rinrin
【アダルトチルドレン・不登校】抱いて生きる
2011-10-16 Sun 12:49
ある不本意な出来事が起こると
人は、「なぜ?」「どうして?」
と世界中に問いかけます。

何か外的な要因に、責任をなすりつけようとしたりもします。

不登校の場合でいうと「どうして、うちの子が、不登校になったのでしょう・・・」
ACで言うと「どうしてこんな家庭に生まれてきたのだろう?」という
根源的なところまで遡ろうとします。

しかし、いくら問うたところで、答えは外にはありません。


3年前、長年看病した愛犬が亡くなった時、
私の中の何かが変容したように思いました。
一体、何が起こったのだろうと、その時のことを
振り返ってみても、明確ではありませんでした。
最近、やっとわかったような気がします。

「悲しみと共に生きていく覚悟」という事ではないかと。

悲しみを無理に忘れようとしたり、
悲しみを無理やり楽しかった思い出に変換して、
悲しくないふりをし続けるという事ではありません。
(ガンガンポジティブ^^;)
また「かわいそう」と嘆き続ける事でもありません。
(ガンガンネガティブ)←某携帯のパクリです。

私たちACは、過去に失った時間(喪失)があまりにも多い。

喪失から立ち直るためには時間が必要です。

衝撃(失う・または失ったことに気づく)

自分の感情を抑圧する

怒り・罪悪感

思慕(同じものを探し求める)

迷い・慢性的な悲しみ・引き戻し(手に入れられない事による迷走)

転機・事実を受け入れる

大まかに言えば、こんな感じかもしれません。


ACの根源的な問い・・・私はなぜ、生きなければならないのか?

答えはないのかもしれません。。。


失った悲しみを抱きつつ、人生を生きていく覚悟が出来た時

過去の亡霊から解き放たれるのかもしれません。

そして、失った嘆きを 誰かと一緒に共有し続けることで

1人で抱える荷物もまた、少なくなるでしょう。

失ったもの同士だからこそ 共有出来る事もあるのです。



人生は、悲しみも、苦しみも、憎しみも、醜さも、後悔も、失敗も

そして、喜びも、楽しみも、美しさも、成功したことも、感謝も・・・

すべての事実を受け入れて、胸に抱きながら生きていくものかもしれません。

だからこそ、1人1人の人生のドラマは、愛しく、切なく、そして

空に輝く星のように 燦々ときらめいて見えるのでしょうね。


りんりん
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歩いていこう 徒然
2011-10-15 Sat 02:54
珍しく、私ことです。

ブログを始めて、6年たちました。
タイトルは、最初から「歩いていこう」じゃなかったんですね^^

ブログを作る時、最初、どんなタイトルがいいか、かな~り悩みました。

候補として、「風に向かって」「風に吹かれて」なんて~のもありました。
始めたころは、「風」というより「嵐」の真っ最中だったのですが~(*_*)
風に吹かれても、桶が、飛ばないように・・・ちゃいますね。
向かい風に向かって進みたい!という力が入ったイメージが強くありました。

結局、新しく人生を切り替えたい思いで
「はじめの一歩」という題名を1週間ほどつけていました。

それも自分にフィットしない感じがして
後ろにも下がらないけど、とりあえず前むいていこう~という感じの
ゆるっとした感じが気にいって「歩いていこう」にしました。

ブログをはじめて、最初は1人で歩いていましたが、
次第に色々な方と一緒に歩かせてもらうようになりました。

分岐点では、仲間と別れたり、新しい出会いもあったりもしました。
旅は道連れ、世は情け。一期一会の出会い。

辛い時は「歩いていこう」と自分に言い聞かせてもいました。

ぱっと見何を書いているブログか わからないのが難点ですが・・・
”「歩いていこう」不登校”
で検索して下さる方もいるようで有り難く思います。

思い入れがあるブログタイトルなので、これからも「歩いていこう」と一緒に
私もまた、成長していきたいと思います。

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【アダルトチルドレン】怒りの奥にある本当の意味
2011-10-14 Fri 06:11
怒りの扱い方は、とても難しい。
「怒りを出しましょう」とも言われるが、
出してもすっきりしないということもよくあります。

また、抑圧された感情を抱える方たちにありがちなのは
「怒りの本当の意味」を違えてしまうことも多いかと思います。

怒りを上手に味わい、感じるには、
自分への洞察力が必要になるかと思います。

たとえば、誰かに話しかけた時に、無視をされたとします。
そうすると、無視した相手に当然、怒りを感じます。

「私のことを無視して、とんでもない人だ!!」
「謝ってほしい!」
「信じられない!」「非常識な人だ」

そんなことを思います。もっともらしい理由ですね。
これが、外向きの怒りの方向性です。
「私には、怒る正当な理由があるんだ!」とばかりに
過去で抑圧された感情が、今起こっているきっかけで表出します。


その怒りの本当の意味を探っていきますと、

「私の事を嫌いなのかもしれない」
「何か、気に障ることを言ったかな?」
「今度無視されたら、どうしょう」(先読み不安)
「ああ、どうしよう」(怯え)
「怖い」
「責められた感じ」

などの、自分のプライドに関わる問題かもしれません。
しかし、怒りに隠された本当の気持ちを隠すために、
他者に、怒る大義名分を作りだしてしまうこともよくあることです。

怒りの本当の意味を隠したまま、
怒りを表現しても 気持ち悪さだけが残っていきます。

怒りを感じた時に、なぜ怒りを覚えたのか
じっくりと自分と向かい合うことが必要だと感じます。

そうすると、本当は、自分の過去の問題だったり、
無意識の恐怖や不安だったりすることが、ほとんどです。

過去の人生で起こった、
理不尽さ、ないがしろにされた感、罪悪感、無価値さ、
自己肯定感の低さ、劣等感、プライドの高さ、あるいは、
融通の利かなさ、虚無感、自分はOKでない、自信のなさ
などの思いこみに起因しているかもしれません。

現在あなたが感じている怒りは、
過去の嫌な出来事に起因しています。
無意識ではあるけれど、何かのきっかけで
似たような出来事が起こり
過去の解消されない怒りが引き出され、これを何度も
経験しているだけなのですね。

もし、我慢がならず、「他力本願、他者丸投げ状態」で、
相手に怒りを投げてしまったら、トゲは必ず自分に戻ってきます。
トゲが戻ってきたら、また、自分を守るために
さらに強固な言い訳を作って行かなければなりません。
さらに、複雑な思考の回路を作っていくことになります。

怒りを感じ尽くすという本当の意味は、他者依存的ではなく、
自分の心の内側に向けて、自分を見つめていくことだろうと思います。

心に深い傷を持っている方たちには、非常に難しい感覚だろうとは思います。
私も長年、この感覚が、さっぱりわからず^^;
さまよっていたと思いますが、感覚は自分で掴むしかないのです。

すぐに答えは出るものでもありません。
答えの出ない問題を持ちこたえる自力もまた必要かもしれません。

心の回復は、一気に高みに昇る事はできません。
地道に、一歩ずつですね。
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【不登校】深く理解することと、信じること
2011-10-13 Thu 17:49
不登校やアダルトチルドレンの回復に必要なこと


自分を深く理解すること


信じること?

どうやって信じればいいんでしょう・・・

本当は、信じることが出来ないから、

信じることに固執しちゃう


本当は、信じちゃいないのさ

まずは、そのことを知る事からしか始まらない。


自分を深く理解したら、

相手も深く理解できる



信じなきゃと思わなくても

がまんしなくちゃと思わなくても

黙っておかなくちゃと無理に抑え込んで、がんばらなくても

自然とわき出てくるもの。


ただ、ひたすら自分を見つめ続けること


子どもたちの調子が悪くならないように

信じようとするふりをするのは、子どもには通じない。

いつか、必ずボロが出る。

子どもたちは、真実の言葉だけを待っているのです。
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【不登校・ひきこもり】なぜ、お風呂に入らない?
2011-10-13 Thu 01:19
「お風呂に入らないんです」

はい、うちもそうでした

不登校や引きこもりのご家庭では、男女関係なく

「着替えない」、「お風呂に入らない」という現象が起こるようです。

これに付随していくのが、昼夜逆転、ゲーム、PCとなりますが

全部、親ごさんが 子どもにやって欲しくないトップ10みたいな行動です。

つい、親は、ゲームをやめさせようとか、お風呂に入れさせようとか

表面のことに目を奪われて、肝心な子どもの気持ちを見落として行きがちです。

そして、お風呂に入る、入らない、ゲームやめてくれ~と、

内心そこばかりに囚われてしまって、「DO」(動かす)に執着していきます。

子どもは、余計親の動かそうという力に抗おうとします。

で、ここで、大切なポイントです。


なぜ、子どもは、親に抗おうとしているのか?

ここを見落とさないでくださいね。

次に「私の育て方が悪かったから」と自責に逃げないでくださいね。


ここんとこを見逃していくと、子どもは、完全に部屋に籠城してしまいます。

子どもが引きこもるのは、ある意味、まゆに入るようなものだと思います。

人は、自分のアイディンティティを脅かされると

自分の最低限の領域を守るために、引きこもるのではないでしょうか。

省エネモード・・・PCでいえば、スリープ状態?


では、どうしたら、スリープ状態を解除できるか・・・


もし、子どもさんが18歳なら、

18年分の親への不信感を取り戻す、逆行作業が必要になります。

逆行作業は、もう一度、信頼を取り戻すことと同義語ですね。

子どもが気楽に、親に話ができる、

笑って冗談を言える、

リビングで一緒にいて、柔らかい空気が流れる

そんな他愛のないことですが、これが実に難しいのです。


不登校・引きこもりに即席ラーメンのような解決法はありません。

親ごさん自身が親子の信頼を修復する為に、

親のコミュニケーション力の向上

親の思考の癖をとらえる力の養成、

人と関わる力を育てていくことが必要だと感じます。

信頼関係の再構築まで時間もかかりますし、エネルギーも必要です。

親ごさんの「思考の癖」や、「コミュニケーションの癖」は

時間をかけて丁寧に修正していかなければなりません。


え、不登校・引きこもりって、子どもの問題ではないんですか?

とおっしゃる方もいて、自分が頑張らないといけないとわかると、

残念な事ですが、去って行かれる方もいらっしゃいます。

それはそれで、いいかと思います。

親御さんの時期がまだ満ちていないという事もあると思います。

それよりも、頑張るふりをし続けられるほうが、

こちらも心苦しく感じたりもします。



信頼を回復するということは、相手の心の痛みを感じ、知り、

理解するということかもしれません。

これは、到底、頭で理解し、理屈でわかっただけでは、

出来ないことかもしれません。

親ごさんが、自分の癖を、心で納得し、腑に落としこみ、

やっと、子どもへのアクションを修正できるのではないでしょうか。

親の沽券や世間体に こだわればこだわるほど

腑に落とし込むことは遠くなると思っていいかと思います。


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【アダルトチルドレン】自分の「怯え」と向き合う
2011-10-11 Tue 14:50
人が怖いと思えば思うほど、実は、他者から見たら
当の本人がまわりから怖がられているという
本末転倒な状態がよく見られます。

(過去の私もそうでした)

矛盾しているのですが(@Д@; 

「どうして、気持ちを伝えないのですか?」と問われれば
「どうせ言い負かされるから言えないんです」と答える。
これは、成育歴からくる コミュニケーションの癖だと思っていいかと思います。

この場合「私」と「相手」は、すでに言い負かすべく敵になっています。
もし、「私」に言い負かす力があれば、勝てるのに~!ということになります。

この「私」にとっては、他者というのは「言い負かす相手」なんですね。

相手と戦うことが前提で、他者との付き合いをしていけば、
常に 威嚇で「がるるる~~」という状態が内在しているということになります。
たとえ、我慢して、表面を取り繕っていても
「雰囲気」というものは、相手に伝わってしまうものです。

   ↑
え、まさか~、こんなに気を使ってるのに~と思います?

もう一度、言います。

バレバレです。

昔、私もバレてないと思いこんでいましたが、
しっかりバレていました(笑

「私がこんなに頑張っているのに、子どもが動かない」
やっぱり、我慢しているので、子どもを見つめる視線はきつくなります。
笑っていても、目が笑ってない・・・

「私は、こんなに努力してるのに、認めてもらえない」
かなり、我慢してますね。
相手の言葉や行動の端々に、自分を少しでも否定する要素があったら
その瞬間から攻撃する「敵」に変わります。

相手が憎い!けど、言えない!
言えないという思い込みが、恐怖になります。
(言ったらいけないという思考+憎しみ=恐怖)
これって、幼少期の親との関係で作られた癖の1つであり、思いこみなんですね。


そうしたら、言っていいのか?
相手に怒りを、ぶちまけていいのか?

きっと、そうした過去もあったはずです。
このように人との関係が壊れてしまったり、こじれてしまった経験が
さらに、「言えない」信念を強化していきます。

怒りを訴えたら、他人であれば、簡単に関係性は壊れますね。
その事を経験から私たちは知っているので、
他人には、当たらず障らずで付き合うことを学びます。
こうして、対外的には、卑屈感、劣等感を強化していきます。

しかし、家族であったり近しい関係になると、甘えが生じますので
当たらず障らずという関係にはなりませんね。
家族なんだから、わかってくれて当たり前でしょ、みたいな感じでしょうか。

この場合は、家族の誰かが我慢を強いられたり、
同じ家に住みながら、互いに怯えながら相手をへこます機会を
伺ってる状態になります。
パワーゲームですね。
(不登校の子たちの逆転現象が起こるのは、小さい頃は力が無いので
 起こり得ないですが、いつしか腕力が親を越えた時に起こりやすくなります)
家族の中では、逆転現象が起こるまで、優越感を味わいます。


さて、こうして我慢する閾値が高ければ高いほど、心は防衛反応を起こし
感情の封鎖が始まります。
「大したことないのよ」(すり替え)
「どうせ、無駄だし」(あきらめ)←不登校の子たちの引きこもり状態と同じ
「私は頭が悪いから言える力がない、私も悪かった」(罪悪感)
最後に、何も感じない(感情封鎖の完全犯罪)

こうして、どんどん自己肯定感も低くなり
「ばかで、のろまで、賢くない私」を自分で自分に刷り込んでいきます。
人生の基盤(もう1つの安全な場所)がここにあるので、
何をやっても「ばかで、のろまで、賢くない私」に帰着します。

そこに行きつきながらも、

反対に敵に対して自分の優位を見せつけたい衝動も起こってきます。
(人間の複雑なところですね)
これが、家族に対する「優越感・万能感」ですね。

こうなると、「怒り」と「他者より優れていたい優越感」と「劣等感」が
混在してしまって、もう、自分が一体何者なのかさっぱりわからなくなります。

シンプルに整理してみますと

世間にみせる「表の顔」が、劣等感
家族にみせる「裏の顔」が、優越感

となるでしょうか。


この魔のループを断ち切るには 根源に行くしかなさそうですね。
ということで、最初の「言えない」という信念に戻ってみましょう。

ここで、ちょっと考えてみて頂きたいのです。

①「人が怖い」(相手が悪い、相手が私を傷つけた、言い負かしたい、わかってもらえなくて悔しい!)

②「相手の言葉で、悲しい気持ちになったり、腹が立ったり、そんな気持ちを持ってる自分がいる。
  どうしてこんな気持ちになるのかな?こんな自分の感情を和らげて楽になりたいな」

どちらが、自分を見つめているでしょうか・・・?


相手が嫌いなら嫌いでいいと思うのです。
それが 人間というものですから^^

しかし、コミュニケーションに慣れない人は、

「言えない」を⇒ 
「あなたから、こうされた!」
「あなたがこうした!」
「だって!!こう言ったでしょ!」

と言う風にまるで相手をへこまさんばかりの勢いになりがちです。
まあ、多少は、トーンは下がるとは思いますが
やってる事は、変わりません。

他者の言葉や行動だけに視点が置かれやすい、癖を持ってるということですね。
これでは今までと、あまり変わりませんね。


上手なコミュニケーション例としては、

「私は、こう感じたんです」でしょうか。
そして次は、「どうしてこんな風に感じたのか自分で考えてみたの」
と、話を自分の内面を見つめる方向に持っていくことでしょうか。

これは、必ずしも相手に直接伝える必要もないことだとも思います。
自分で自己修正をかけていけば それでOKなことだとも思います。
もし、伝えたくなったら、身近な信頼する人
気持ちを聞いてもらえばいいかと思います。

自分の感情面に視点を置く事が大事だと思います。
自分の感情をないがしろにしていたら、ただの人のあらさがしになりやすいものです。
また、誤解も招きやすいものです。

まずは、自分で自分の気持ちを見つめ、整理していくことをお勧めします。

質問がありましたら、セッションで聞いてくださいね。
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【AC】お手軽な理論よりも自分を見つめて苦しむことが回復の鍵になる
2011-10-10 Mon 00:27
昔の手書きの古い日記を数冊取り出して読み直す機会が最近ありました。

悩み、苦しみ、泣いている過去の私が、そこにいました。

時には、文章にならない殴り書きもありました。


それまで何冊もAC関係の本は読んできた。

いいなあという言葉も、たくさん見てきた。

が、わかっていても、理論は身に付かなかった。

こぼれるように頭から抜けていく。

「自分を信じましょう」「自分を大事にしましょう」

それって、いったいどういうこと??


頭でわからないのなら、最後の最後は、自分の本能に働きかけるものを

選んでいくしかないのではと感じる。


きんたろうさんのブログに出会った時

数回読んでもさっぱりと意味が判らなかった。

何箇所か、どうにも引っ掛かってくるフレーズに

ズキンときたり、むかっときたり(笑

しかし、ズキン、むかっだけではなく

誰もが持つ回復への可能性を信じている

一貫した姿勢に本能的に惹かれていた事も事実。


記事が更新されるたびに、ズキンときたり、むかっとしたりして、

その気持ちをお持ち帰りしては、

自分で何度も反すうして考えては、

じぶんなりの答えを出そうとしていたことは

間違った答えだろうと、正解だろうと

それはそれで、よかったのだろうと感じる。


自分で考えて、自分で苦しんで、自分で悔しがって

かすかに修正をかけていくことが

少しずつ出来ていたのではないかと感じる。

自己矛盾に気づいていくプロセスだった。

矛盾さえも、それまでは気づいていなかったのだから
(正確には、気づこうとしていなかった)
気づこうとしていないのに、どんな本や理論を入れ込んでも何も残らない。


1人で泣いて、1人で苦しんで、1人叫んで、1人で悲しんだ時期

気がすんだら、一筋の光のように次の言葉が入ってくる。

私の中で「言葉」が突然意味をなしてくる瞬間。

それは「わかった」「認めた」という瞬間。

そんな時代のことを

バカみたいだったな~というのは、確かにある。

はたから見たら、こっけいにも見えただろう。

ACの回復には、このバカみたいに、必死になることは必須だろうとも思う。

理論だけで、きれいさっぱり数十年の癖がなくなるわけがない。


わかってみて、「なんだ、こんなことだったのか」と呆然とする時も多い。


けれど、ばっかみたいに一生懸命に回復しようともがいていた

あの頃は、私の宝物。

愛おしいとさえ思う。


あの頃があったから、今の私がある。

苦しいってことは、案外、いいことなんだよ。

苦しいって思う分だけ、本物を経験してるってことだもの。

心の回復が、そんなに簡単にできるはずもない。

それほど、AC回復は生易しいものではない。

外から手に入れた理論なんて、すぐに消えてしまう。

自分が苦しんで葛藤したことしか、自分のものにはならない。

失敗の数だけ、成長できる。


少なくとも、私は「きれいな幻の世界」「つもりの世界」に

行かずにすんだことに、今は何より安堵している。

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不登校の子が年齢が上がると回復しにくい理由(2)【不登校】
2011-10-07 Fri 14:09
年齢が上がると回復しにくい理由(1)【不登校・AC】

前回では、大人の事情を中心に書いてみましたが、
今回は、不登校や引きこもりの子たちが年齢が上がると
なぜ、回復しにくいのか?を書いてみたいと思います。


●不登校や引きこもりの状態に親子で慣れてしまう

子どもが不登校になった時、子どもを動かそうと、
最初の数か月は、あたふたと色々手を尽くします。
が、テコでも動きそうもない、
または、アクションを起こすと子どもが荒れる
これを繰り返していくと
次第に親は腫れものに触るよう子どもに接するようになることが
多くなるのではないかと感じます。

「これ、言っていいかな」
「これ、やったら、また荒れるかな」

びくびくしながら、心は、「どうすりゃいいんだ!」
と、万策尽きた感じでしょうか。
言いたい事も互いに言えず、親子お互いに監視し合っている膠着状態。

さらに、時が進むと、その状態が普通の状態になっていきます。
当たらず障らずで、家で機嫌がいいなら、それでいいかも・・・
そのうち、動き出すかもしれない。
もちろん、初期のころは、「休ませること」は鉄則です。
が、疲れたままで、10年、20年・・・
では、いつ、疲れがとれるのか?

このような慣れた状態を、正当化する言葉が、
「時間が解決する」
「今は、疲れてるのよ」
「ゆっくり休ませる時期なのよ」で、
さらにまた、子どもたちの自力を奪っているのではないかと
感じます。

なんらかのきっかけなくして、子どもが自分から動き出すということは、
無いと、思います。
このような「信じて任せる」行為を推奨されるお医者様や、支援者もいますが、
今現在、ニートや、引きこもりが減る事がない現状を知っておられるのだろうか?と
多大な疑問を抱きます。

ある種、宗教的な「信じて任せる教 他力本願寺」にすがってる人たちを
増やし続けるだけではないかと感じてしょうがありません。


●子どもを取り巻く環境(繊細さをぶち壊す)

いじめで凹む子ども、立ち直りの出来る子
同じ担任でも、担任と気が合わないと学校拒否する子
そこそこ、しょうがないなあと、合わせられる子
どちらが、自力をつけていけるか・・・
そんな事を考えると、

「繊細な子たち」というキーワードが浮かびます。

生きていく上で、物事を深く考えたり、繊細であることは
確かに大切ではあると思います。
しかし、繊細過ぎることで、コミュニケーションのズレや人間関係に支障がでてくれば
今後の課題として繊細さをぶち壊す力を自分で身につけていくしかありません。

「繊細すぎる」性質(たち)と呼ばれるものは、
性格や気質もほんの少し影響するのかもしれませんがおおかた、親からの強烈な
「過干渉、過保護、不安の植えつけ、操作」の結果ではないかと感じます。

「繊細すぎる癖」だと捉えていけばいいのだと思うのです。

ここに、スピリチュアル系でよく言われる、インディゴチルドレンとか、
選ばれた子どもたち、とか、くっつける必要は無い(きっぱり)と思います。
私たちが子どもたちに望むことは、地球を救ってくれるような
インディゴチルドレンと呼ばれる子どもたちを育てることではなく、
(もしかしたら、これはインディゴチルドレンの母というステータスを得るための策謀か?
と私は、思っているほどです。まるでアイドルスターの母みたいに)

子どもたちが、子供らしく生きられ、
社会に出ても、社会の人間関係に負けない打たれ強さを身につけ
人間関係を構築する力をつけることに尽きるのではと・・・


と、私は感じます。



●棚上げしたい大人たち(現実から目をそらしたい気持ち)

失敗したくない大人たちとも言い変えていいかもしれません。
これまでの人生で失敗した回数だけ、学んできたことを
なぜか忘れてしまっている大人。

だれか、助けてくれないかな・・と白馬の王子様を待ってるだけ。
何も、変わりようがありません。

自分を見つめることは、怖いですよ、ほんとに。
何が出てくるか、わからないのですから。
しかし、自分の痛みを感じずして、子どもが今抱えている痛みが分かるとは
私には、どうしても思えないのです。


●心が動かない(あきらめ感)

こうして、数年放置された子どもたちは、何もとっかかりがないままに
義務教育を終えてしまいます。
義務教育の間は、「学校」というストレスが
多少なりとも、子どもの押し出しのきっかけになることもあります。
しかし、学校や圧力がかかるものが全くなくなると。。
親子で、一緒に考えることも、きっかけもなくなります。

子ども自身も長期化すればするほど「あきらめ感」は強くなります。

このままずっと過ごしていける感覚から抜け出すことが難しくなっていくのではないでしょうか。

人間、安定したら、このままの生活をずっと続けていきたいと
思ってしまうのは、自然なことです。
人とのつながり、摩擦の中にいて、はじめて「どうにかしたい」という気持ちも
出てくると思うのです。

よっぽどの信念がなければ、今を継続していく毎日の方が安全で良いに決まっています。
過保護、過干渉で 安全な道だけを親が提示してきた結果だろうと思うのです。


年齢を重ねると、さらに、安全思考は固まってきます。

親側も、相変わらず、「過保護過干渉」に気づかず、
おなじことを繰り返している毎日。
不登校、引きこもりになって少しだけ影をひそめただけ。

子どもたちは、変わりようがない毎日。
どうしようもない無力感だけが、日々募るだけ。

無力感の中に、喜びや希望を探してさまようだけの日々。

突破口を求めても、ドアが見つからない。

やがて、あきらめていく・・

自分への言い訳、責任転嫁、ごまかしていけばいくほど、
自分の気持ちは、迷路にはまりこむ。


突破口のカギは、親が握っていると、私は思うのです。

親の心と行動が変わった分だけしか、子どもは変わらない。

もし、子どもが回復していない状態なら

親自身の心が未だ修正されていないということを示しているだけの事だと思うのですよ。

子どもは、親を映す鏡
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【不登校・AC】「子どもが動き出すまで待て」でいいのだろうか?
2011-10-01 Sat 18:12
前の記事のコメントで、質問を頂きました。

不登校の対応として「何もせずに子どもが動き出すまで待て」

ということは、よく言われることです。

これが、果たして正しいのかどうなのか?

という質問でした。


答えは、○であり、×でもあると感じます。

これは、その親子関係の状態で決まる気がします。

あまりに、過干渉すぎるお母さんの場合は

援助者は、そう言うしかありません。

しかし、放任の場合は、そうもいきません。。。

また、子どもさんの時期やお母さんの時期によって、

押し出す時期は、ある と思います。


そのことを念頭に 経験を交えて 記事を書いてみました。


参考になれば幸いです。

.。.:*・゚+.。.:*・゚+.。.:*・゚+.。.:*・゚+.。.:*・゚+。.:*・゚+。.:*・゚


今に思えば、大層なことでは無かったことでした。

小学校、中学校時代、自分と他者のズレが際立ち

どうも自分は、周りと話が合わない・・・


物事の感じ方が人と違う・・・

そんな事を感じていたと思います。

その大元は、TVやご近所、果ては友達選びから

遮断された家庭環境にありました。

その家庭でしか、通用しないルールズ。

自分の常識、他人の非常識が多過ぎることが

まわりとの違和感を強め 他者の間に埋められない

疎外感を感じざるを得なくなっていったのだろうと感じます。

簡単に言えば、許された物事が 極端に少ない環境に生きてきたということです。


これは、AC家庭、不登校の家庭でもよく起こっている事ではないかと感じます。


「人と話が合わない」

家庭で、禁止されたことが多すぎて、それが当たり前すぎて
(例えば、TVを見せてもらえなかった、NHKしか見れなかったとかあります)

合わないゆえに友達と共感できることも また少なく

疎外感だけが、肥大していく。

コミュニケーション以前のゆゆしき問題となります。


子どもは、そんな事とは、全く分からないまま

人と共有することも出来ず、自己肯定感を貶めていくのでしょう。

不登校のお子様が、「友達が欲しい」のに

「友達ができない」「中に入れない」

と、聞きます。

うちもご多分にもれず、そうでした。

そして、私自身も同じように、子どもと同じ悩みを抱えて数十年

苦しんできたACの過去がありました。

これが、世代間連鎖として、子どもに伝わっていったことであるのなら

親が 視野を広げ 変わることで、

子どもの世界を広げられる可能性があると思うのです。

親が生きやすくなれば、子どもも、生きやすくなる。


方程式のように連動しています。


しかしながら、この年になって(汗;

失ってきた感覚、ズレた感覚を修正していくのは、

短時間では決して出来ないことです。

そもそも、自分が何を失ってきたのかさえも覚えていないのですから。

時間をかけてしか取り戻す事が出来ないことだろうと思います。

一枚一枚、薄紙を重ねるように、

繰り返し 根気よく ズレを修正していけば

感覚として、自然に毛穴から子どもに伝わっていきます。


かといって、これは子どもに対して「何もしない」

ということを指しているのではないですよ。



親が変われば、親の思考の方向が自然に変わっていきます。

行動が変わってきます。

言葉が変わってきます。

親子関係が変わってくるということですね。

途中、親の変化していく過程において、

子どもたちは、色々と抵抗を示します。

「なんで、今更!真逆のことを示すの??」と混乱もします。

「前のお母さんがよかった!」という言葉も出したりします。

(そこで 親側が おろおろさせられることもあります)

子どもが親の変化を「いい感覚」「心地よい感覚」

としてキャッチしていくことで楽になることを実感するまで

「なにをいまさら~」という抵抗を示してくる事があるかと思います。

ここで、めげないことでしょうか。。。

親側が方向性の軸をぶらさない、

ゆさぶられない

この感覚を親が身につけていくことで

子どもが次の一歩を踏み出す力になって

行くのではないかと感じます。

 
世の中には、色々な 理論があるかと思いますが

なにより、子どもの違和感のズレを

少なくしてあげられるのは

子どもより自力のあるお母さんにしか出来ない

大仕事だろうと思っています。

以上のことから、

何もせずに放っておいて、子どもだけ変わるということは

有り得ない・・・
と私は考えています。

もし、何もせずに 子どもが回復したのなら

それは、知らず知らずのうちに 

お母さんが、人の助けを借りながら、

自分自身を緩ませ、心を自由に解き放つことが

出来た証なのではないでしょうか。
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