author : rinrin
インナーチャイルドの癒し3
2006-06-01 Thu 15:57
【あなたが大切】

以前、楽天ブログにも、書いた記憶があるけれど、
AC広告機構のコマーシャルに、
「命が大切」と何百回言うよりも、
「あなたが大切だ」と言うことが、大切だ、みたいな

そんな趣旨の新聞広告があります。

今でも、あるのかしら、よくわかりませんが、

ACにとって、
「あなたが、大切だよ」と
親から、一番言って欲しい言葉だったはずなのに、
どうしてか、それを言ってもらえなくて、
あるいは、それに基づくような、愛情をかけてもらえなかった事が
致命的に、その後の人生を、生きづらくしているのは、
周知の事実です。

しかし、こんな言葉、ラブラブの恋人同士なら
いざ知らず、(爆)
夫からさえも、引き出すのは、難しいですなあ。

だから、自分で自分に言います。
「あなたは、大切な存在だよ」

何度も、何度も、自分の中のチャイルドを
抱きしめながら、
つぶやきます。

「あなたは、大切」

チャイルドは、ほっと安心のため息をつきます。

そうやって、自分を愛していってます。

そのように、愛されたチャイルドは、次第に
自己肯定感を強めていきます。

私は、現時点では、この段階です。

その後、
自己肯定感は、潜在意識にも届き始めるだろうと思います。
そこまで届くと、
きっと、親としての私の無意識が、
自分の本当の娘や息子の無意識とつながりはじめ

彼らにも、肯定感が伝わっていくのではないかと
そう、考えています。

確証はありませんが、
そう、思っています。

今後、母親の自己肯定の高まりが、
子育てに、どのように影響していくか、
これは、私にとっても、ひとつの実験です。




【ブログの功罪】

なんて、大したお話しじゃないんだけど、
ブログって、いろんな人から、コメント頂いて、
お話しできるのが、楽しいし、勉強にもなります。

だけど、多くの人が経験していると思うけれど、
突然、ブログ閉鎖したくなる時って、あるんですね。

どうしてかというと、コメントに添って、
お話ししていると、自分が意図しない方向に
自分の気持ちを持っていかれたりすること多いのね。
それに逆らうのも、ちょっと、勇気や力が必要だったり
するので、めんどくさくて、
「そうね」とかやっちゃうと、
だんだん、本来の自分と違う自分が、
出来上がってしまって、
「なんか、書きたいことが、書けなくなる」状態って、
あるんじゃないかと、想像します。

これは、現実生活でも、起こることなのですが、
要するに、相手を受け入れつつ、迎合しないという
スタンスは、現実生活でも、
ネット世界でも、とても大事なんだと思います。

相手に合わせてしまうと、
生きづらくなってしまいます。
しかし、相手を失う怖さがよぎるために、
言いたことが、言えなくなって、
関係が壊れてしまうって、
依存性の高さゆえにあるわけです。

自分のブログのスタンス、
自分の生き方のスタンスの確立は、
大事だわ。




【満月瞑想】

どうやら、頭痛は、もらっちゃった頭痛のようでした。

満月瞑想やって、
かなり、軽くなった。
自己処理には、瞑想に限る。
それでも、完全じゃないから、強いなあ~。


電話やメールでも、思念として、もらうことあるんだ。
はじめて知った。

気をつけよう。

不思議話で、すみません。


で、相手は、妹でした。やれやれ。( ̄∇ ̄;)
恐るべし・・・




【怒りの終着点は。。。】

一気に、走りこんできたので、気が抜けたように、
ほうけ状態に突入。
この一月、重低音のように、「人恋しさ」が、まとわりつき
それらを振り払いながら、書くということに、集中してきた気が
します。
ワーク時、自分の傷を、掘り返し、洗い流し、膿を出し、
その作業は、結構、不安定さを伴います。

怒りの解放について、試行錯誤してきましが、どうにか、着地
できた気配を感じています。報告が遅くなりました。
どこに、着地したか。。。

実は、「自分」に着地してしまいました。
両親や、身近な人への怒りと憎しみをいかに、解放したか。
解放するために、瞑想をやりながら、相手を殺すという、
ワークをやってみたのです。
よく、エクササイズ本等で、紹介されているのですが、
エンプティ・チェアという手法があります。

どうしても、相手への怒りが収まらなかったら、
カラのイスに、相手が座っていると思い、新聞紙で、相手を
叩きのめすという、エクササイズなのですが、
これでは、どうも、チャイルドが、納得しそうになかったので、
アドバイスに従い、思いの中で、殺人ということをやってみたわけです。

これは、非常に効果があったと思います。
インナーチャイルドも、満足してました。

しかしながら、怒りの残り火は、相変わらず、くすぶり続け、
どうしてだろう?と、考えていたわけです。
それが、楽天ブログの「怒り・憎しみについて」に、なったわけですが、
そこでは、終着点のことについて、書いておりません。
なぜか・・・まだ、ワークの途上にある人にとって、答えを先に出すことは、
あまり有益ではないと、考えたからです。
そこは、自分で、自然に行き着かなければならない場所のような
そんな気がしたのです。


で、私の終着点は、一体どこだったのかというと、
「自分への怒り」にたどり着いたのでした。
まあ、ありふれたものなのですが、知識として、そこへ
導かれる場合と、じぶんが、搾り出して、考えた末に、そこへ行き着くのとは、
全く、次元がちがうのです。
けたはずれに、自分が、たどりついた方が、
苦悩も大きかったし、身もだえするような、感覚は、
非常にリアルでした。

なので、ここへたどり着けたことは、今までの、知識や
言葉では、言い表せないくらい、消耗するような事でした。
しかし、さいわいに、下地ができていましたので、
案外、納得が、早かったのも事実です。
これを、下地なしで、やることは、お勧めしませんし、
また、下地があったからこそ、たどりついた場所だと、思っています。

で、「自分」に帰着したというのは、どういうことかと言いますと
他人への怒りや、憎しみは、自分への怒りと憎しみの、投影にしか
過ぎなかったということです。

わたし自身への、怒りは、「罪の意識」として、無意識下に、積もり
その罪の意識の肥大こそ、「自虐的精神」「孤独感」「自尊心の欠如」を
増大させる、源ではないかと思うのです。

その自分への怒りを解放するために、一体何をしたかというと、
一般に言われる
「大丈夫だよ」
「あなたは、そのままのあなたでいい」
とかの、癒し言葉は、少しも役に立たない。気休めでしかなかった。
大きな心の改革が、必要になることを感じ、

ノートに、自分の『罪」と感じていることを、
ずらずらと書き出してみた。

ちょっと、この辺は、こういう公開日記に書くのは、非常に
ためらわれるので、やめておきますが、
まあ、そういうことをやってみたわけです。

これが、また、辛いことで、
裸で、市中を歩くような、感覚があって、
それを振り返れば、今まで、罪の洋服を着て、歩いていたんだと
思うわけです。

そして、脱ぎ捨てた洋服の山を見ながら、さて、どうしたものか。。。
それで、アドバイザーに相談しました。
これ以上は、一人で出来る作業ではないことを、感じたわけです。

そして、「許し」の作業をやったわけです。

この作業は、具体的に書きたいところなのですが、
色々、支障があって、書けませんのです。

あ~、ここが、聞きたかったのに!と思われる方は、
個人的にご連絡ください~^^

まあ、こういう経緯があって、やっとこさ、怒りを手放すことが
できたようです。
これからの、課題としては、怒りをその都度、消化していくこと。
ためこまない。
自分をいじめない。

等々、ありますが、穏やかではない、ワークだったので、
現在、気力使い果たして、ほうけてしまっております。

しばらく、充電しようと思います。
中途半端な報告になりました。




【怒り】

今回の怒りの整理は、概ね、終わったと思う。
しかし、最後のひとかけで、つまづいて、考えこむ。

「怒り」は、心の中の猛獣であるらしい。
攻撃されればされるほど、肥大することを学んだ。
そのことで、私が、幼い頃、作り上げていた、
「幻の白い狼」は、怒りを具現化して、作り上げた、生き物
だったのではないかと、思う。

私は、幼い頃、白い狼を心の内側に作り上げ、会話をし、慰めの友と
していた。
それが、瞑想をやることで、思い出し、
白い狼は、一体どういう役割で、私の中に、住んでいたのか、
分かった気がした。

狼は、怒りの象徴であった。
想像上の友では、あるが、私を守る存在であった。
しかしながら、怒りは、時として、自分自身を攻撃するらしい。
それで、私は、怒りを、自分の外側に作る必要があったのだと思う。

私の中のチャイルドが、白い狼を、愛おしく思う、
英雄のように、感じる気持ちは、自分を守る盾として、
感じていたからだと思う。

そういうことを、まとめていくと、狼=怒り、と考えられる。
で、今まで、他者に対しての怒りに焦点をあてて、考えてきたが、
この、最後の行き詰まりは、どうやら、自分への怒りだったのだと
思い至った。
自分で、自分に怒りを感じ、許せないと感じている自分。
妙な話だが、最大の敵は、内にあり・・・ということに、行き着いた。

しかし、この、自分への怒りを、どうやって、消したらいいのか。
強力な、アファメーションと、本等には、書いてある。

それは、現在進行で、やっていることである。
もうひとつ、考えたのが、自分を自分で、納得させるという、
つまり、それは、認知のゆがみなんだという事を、
自分が、納得したいという事だった。

しかし、どうやって?

ここが、また、難問。

大人の私は、自分への怒りが、自分を、傷つけ、内部から
破壊していくことを、身をもって、知っている。
しかしながら、チャイルドの私に、そのことを、理解してもらうには、
難しいと感じている。

だれか、信頼している人に、
「もう、自分を攻撃しなくて、いいんだよ。
自分を憎まなくていいんだよ」
と、言って欲しいと、感じた。

それは、大人の私が、チャイルド自身に言い聞かせることになるのだが、
どうも、説得力がない。

チャイルドが、理解しやすく、信頼していて、納得できる相手といえば、
もう、これは。。。お願いするしかないなあ。本当なら、自分自身にならなきゃ
いけないはずなんですが。

というところまで、きました。

しかし、これが、果たして、正しいのか、成功するのか、
全く、自信がない。
でも、最後の砦となるだろう、ここの突破は、私のこれからの
生き方の方向性を、かなり変えるのではないかと、感じている。




【わざわざ地雷を踏みにいく】

そんなことも、たまには、必要なんだけど。
それは、でも、自分の体と精神状態を考えてからのお話しって
気がしないでもない。

どうして、わざわざ地雷を踏みにいくのか。。。

潜在意識の中で
自分は幸せになったらいけない、という暗号が
刻まれているのだろうか。

それとも、前世での、つながりなんだろうか。

惹かれるように、飛び込んでいく様を見て、
止めたい。。。でも
それは、相手の人生。

やってみたら、世界が変るかもしれないという、
淡い期待?

でもね、誰も、自分自身を助けてくれないんだよ。
自分は、自分で救わなくては。。。

じりじりしている。

が、これは、相手の状況であって、私の状況ではない。

望まれもしないのに、
しゃしゃり出ていく気もしない。

その事で、私が落ち込む必要も無いことは、
重々、承知している。

相手の人生。
相手の学びに、手を出すな。。。
これは、私の修行。




【過干渉】

過干渉と必要な手を差し伸べる時の違いってなんだろう。
基本の基本とおもうけれど、
あるブログから、題名を拾って、考えてみた。

過干渉は、相手が必要としていないのに、
相手にできることを任せられず、
代わりにやってあげたり、
肩代わりしたやることだと、認識している。

じゃあ、必要な手とは、
相手から、助けを求められた時、
相手が、問題を乗り越えられるように
アドバイスをしたり、手伝ってあげること。
ただ、これには、制限がある。

自分の幸せを壊してまで
できないので
境界をはっきりさせておくこと。

でないと、共倒れになる。

しかし、相手に手を差し伸べ、共感することは、
行動として、どのような表現を行えばいいのか
迷うところである。
今の私には、ここが、すごく、あいまいで、
はっきりしない。

数値ではっきりでるわけでもないけれど、
自分なりの、境界を持つことは
早急に急がれることなので、
困っている。

どのような時に、人は、助けの手が、嬉しいと感じるのか。

ぎりぎりのところで、
どうしよう、
もう、打つ手がないって思うときに

差し出される、言葉、行動は
次に進む、勇気となるけれど、

「こうしなければならない」となると、
もし、やることで、失敗したら、
相手のせいにしなければならなくなる。
例え、自分が納得していてもだ。

この辺の、納得の度合いが、
人によって違うんだよね。

する、しないは、相手の自由でなければならない。
しなかったからと行って、
殴る、ける、脅し、暴言は、
人として許されない。
時として、これは、共依存度が高いと、
そういうことになりがちだ。

DV、子供の虐待もそうなのかもしれない。

アドバイスするときは、
相手の、共依存度を見極めて
強さを調整しなきゃいけないのかな?

アドバイスすることに、酔ってしまうことも
危険性としては、大だ。
これにも、気をつけなければならない。

適切な、手の差し伸べ方って、
結局、相手の気持ちに沿うって、ことだなあ・・・
答えや、マニュアルなんて、無いんだなあ、きっと。

数値で見ることができたらいいのに。



【呪縛】

自分が調子のいいとき、
@さんに会うと、いつも、突っ込まれて、どん底に落とされる。
そして、私は無口になって、重い気分で帰途につく、というパターンが
多かった。

そのためか、ここ数年、気分がいいときは、
用心して、抑えて、彼女に会うようになった。
気をつけて。
用心して。

それでも、彼女のいつ出るか予想の付かない、逆鱗に触れると
「やっぱりな」と確信を持つ。

どうしてだろう。


ふとね、思うの。

もしかして、彼女は、私が能天気に感じられたら、
むかついていたんじゃないかと。

彼女が言う、真剣ではないと、感じたのではないか。

いくら、隠しても分かるというのは、それは、もう長年の付き合いで
あ、うんの呼吸があるので、見透かされる。
もちろん、こちらも同じだが。

私が幸せな気分でいることに、嫌悪を抱いていたのではないか。

本当は、一緒にいることが、嫌だったんじゃないか。

そう、考えると、彼女の突然の豹変、意地悪な言葉の裏が
理解できるような気がする。

もちろん、彼女自身は、そのようなことは、微塵も思ってないだろう。
私は、意地悪な言葉と表現するが、おそらく、彼女の言葉は
真実の私を見抜いて、正しいのだろう。

そして、彼女は、私を変えたがった。
自分の思うとおりに。
いや、言葉の上では「あなたが、自分の人生をいきいきと生きられるように」と
言うが、それは、詭弁だ。
自分の人生を、生きる練習をするのに、
誰かのいいなりになったり、いいなりにならなかったと言って、
怒り心頭になったり、なだめすかしたり、するのは、
おかしいんじゃないか?
彼女は、「私はあなたの親じゃない」と言ったが、
「私は、あなたの所有物じゃない」と今なら思う。

結局、最後まで、彼女が、私に彼女自身の事を相談する事はなかった。
私は、彼女の中では、決して対等では、なかった。

彼女と別れた後、いつも後味の悪いソーダ水を飲んだ後のように、
喉の奥に、かみ殺した恨みを引きずり、わたしは、陰鬱になる。

私は、彼女から逃げ出した。

結局、いい気分のときに、次には、悪いことが起きると
植えつけたのは、彼女だったのだろうか。

親はどうだったのだろう。
私は、@さんに会う前は、その日暮らしの、漂流者だったから、
明日の事を、思い煩うことは、あまりなく、
どちらかというと、現実の苦しい現状に、あえいでいただけだったような
そんな、気がする。



関連記事
別窓 | AC関連 | コメント:0 | トラックバック:0
<<海猿を見てきた [ 子ども ] (139) | 歩いていこう | 依存と共感 [ AC ](138)>>
この記事のコメント
コメントの投稿
 

管理者だけに閲覧
 

この記事のトラックバック
トラックバックURL

FC2ブログユーザー専用トラックバックURLはこちら


| 歩いていこう |