author : rinrin
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自分の色眼鏡 [ 日々のこと・徒然に ](150)
2006-10-09 Mon 15:56

ほしのきらめきさんのブログに、色眼鏡で事象を捉えないということを、言われているところを見て、深く、納得します。

人は、それぞれ、生まれてから、これまでのうち、物事をどのように捉えるか、心の癖を身につけながら生活してます。心の癖は、プラスに作用すると、とても、素敵な事になりますが、往々にして、マイナスに作用する部分だけが、クローズアップされるという事も、あります。

もし、マイナスの作用のある癖が、その人に不要のもので、これから生きることへの障害になっているのだったら、それを修正した方が、楽に生きられるわけですが、その、マイナスのトゲトゲを、丸く滑らかにするのが、人との関わりだと私は思います。

そのポイントとなる基準は、同じことを何回も繰り返す。
自分が、穏やかな気持ちになれない。(怒り、恨み、悲しみ等)
これが、マイナスか、プラスかの癖を見極めるポイントになると思います。

心の癖を「色眼鏡」と、きらめきさんは、表現されていますが、眼鏡をかけていながら、
自分の姿は、自分には見えないわけですから、自分が何色の眼鏡をかけているのかどうか、分かりませんよね。
自分じゃ分からないから、人によって、教えてもらうしかないわけです。

そして、同じことを繰り返しているぞ・・・と思ったら、相手ではなく、自分の眼鏡を外して、ちょっと、眺めてみるのも、いいかなと思います。
あるいは、信頼できる人に、「何色に見える?」と聞いてもいいわけです。
そこで、怒ったらいけませんが。^^
まあ、これが、「反省」「内省」というものに、あたるんじゃないかと思います。

私も、自分の感覚ほど、あやふやで、怪しいものは、ないよね、といつも思っています。
でも、最近は、あやふやな感覚に、方向性をつけるということが、出来なかったから、不安定な感覚を持っていたんだなあって、感じます。
方向性というのは、「自分は、自分を好きか?」これに尽きるなあと思います。

誰かに、褒められたから、天にも昇る気持ちになったり、誰かに、裏切られたり(←この感覚自体、私は、危険信号だと思っているのですが)嫌なことをされたりしたら、どん底に落ちてしまうという、自分以外のものに、気持ちを左右されないって事は、最近の私には、非常に大事だと思えるのです。


不登校初期の頃、息子が、学校へ行ったら、鼻歌が出るほど、嬉しくなったり、
反対に、行かなかったら、「私が至らないから」「どうして?」と、どよ~んとしてしまったり、最初の半年は、相手任せの人生でした。
行かないと、責めたくなるんです。「どうして、行かないんだ!」と。
行くことが、良い事と思い込んでいる、色眼鏡を外せなかったわけです。
だから、息子を心配するというより、息子の行動で、私の気持ちが決められると言っても、良かったと思います。要するに、誰のことも、心配なんかしていなかったんだと思います。
心配していたのは、「自分」だったんですね。エゴですね。
不登校の子を元気にさせるには、まず、この、親の・・・自分のエゴを捨てることが、第一歩だなと、今は思ってます。

今、紆余曲折を経て、感じることは、不登校が、なければ、私自身は、この色眼鏡に気づかなかったと思います。言われても分からなかったと思います。人は、自分の範疇をはるかに越えた問題が起こったとき、初めて、立ち止まって、色眼鏡の存在に気づくのではないかと思ったりします。

その事から、今まで、正しい、良いことと思い込んでいたルールには、何一つ、信頼できるものは無かったなと・・・反省を込めて、癖の書き換えをしているのが、現在かなと思う。



ある事が、あった。。。
私は、冷たい、人の事を大切に思えない、そういう人になった。
ある人にとって、私は、裏切り者だ。
昔だったら、言い訳したろうね。でも、このとき、私には、信念があった。
40数年も生きていたら、一時しのぎに、人に好かれるつもりなら、適当に、あしらえる技術だって、持っている。
しかし、今回は、あえて、それをしなかった。
だから、自分の感覚が、「これでいいんだ」と答えるままに、行動した。
それが、私の「守る」ということを、色々考えさせられた。

Tさんの事が、今だ未消化だったけれど、多分、Tさんは、私から、憎まれながら、「守った」んだと、ふと、思った。
意識的にせよ、無意識にせよ、彼女は、その方法を取ったんだろうと思った。
優しく抱え込むような、おだやかな愛情表現もあるけれど、厳しく、突き放す愛情というものも、あるんだ、と、初めての感覚だった。
彼女は、きっと、そんな事は、認めはしないだろうし、もしかしたら、私が、そう思いたいだけなのかもしれない。けれど、どんな状況でも、人を信頼するという事を、私は、ここで、学ぶ必要があったのではないかと、思い至る。
すごい事だと思う。
それが、できるというのは、本当に信頼していないと、出来ない事だから。。。
色々考えると、そのほかの野暮な憶測は、山ほどできるけど、それをしたら、自分が、「穏やか」ではいられなくなる。その感情の選択は、私にあると思うから、私は、野暮な憶測は、しないことに決めた。
キュブラーロスが、言うには、人が、もし、不治の病を宣告された時、最初は、「悲しみ」そして、「怒り」それから「自責」そして、最後に「和解」の道をたどるそうだ。
これは、不登校でも、よく使われる気持ちの段階です。
人間というものは、そのように、できているんでしょね。

まあ、何が言いたかったかというと、マイナスの感情や思い込み、癖は、色眼鏡を外そうと思ったら、自分の意思でできるという事を言いたかったんです。(長い・・・)

できたら、「怒り」「自責」の段階を短くしたいなと思う。

人は、それぞれ、重い荷物を抱えて生きている。長い人生、時には、そういう事も、当たり前にある。それを自分だけと、シンデレラになるのは、私は好きじゃない。ただ、言わないだけなんだから。
時には、裏切られる時もある。でも、ほぼ、人生というものは、自分が種をまいたから、芽が出て、結果が出てくるわけで、裏切られたという言葉には、胡散臭さを感じる。それは、単に、自分の荷物を相手に渡しているだけだと感じる。
特に、スピリチュアル的には、まさに、この通りなんです。
そして、大事な事は、人生の主体を、相手に手渡して、あなた任せの人生を演じている気がするのは、私の、思いあがりだろうか。

人生の主体は、自分。
人に、自分を預けたらだめだと思う。
この、人生の主人公は自分という感覚は、言葉では知っていたけれど、
ほんとに、私は、ここ最近まで分からなかった。
つい、この間まで、人生は、得体の知れないものに、左右されていると恐怖を感じていたからだ。

主体を取り戻す、という事は、わがままになるという事とは、全く違うのだと、理解した。
怒りをぶちまけ、悲しみを垂れ流し、憎しみを飛ばし、それは、自分を幸せにしない。
これは、私も、恥ずかしいくらい、かなり経験があるので、分かります。
大切な事は、ただ、自分の方向性として、「善」へなろう、向かおうとしながら、天の御胸を借りる気持ちで、それらの感情にさようならと告げる過程には、それが必要であるけれど。
何かをすれば、主体的に生きられるというのは、錯覚。
どのように、生きていても、どんな時でも、主体的に生きられるんだ。



大切なことは、主体性、そして、信仰。
私がここで言う、信仰というのは特定の宗教を指して言っているのではありません。
自分より、なにか、偉大な存在があるという、本能的なものを言っていますので、誤解のないように。


以上の文章は、誰か、先達の受け売りだと思ってください。^^

でも、そうだとしても、今は、そう感じるのです。

正しいことを、正しいと言えない時だって、ある。
間違っていることを、間違っていると言えない時もある。
声高に、怒りをぶちまけたい時だってある。

でも、それらの事を、そんな時もあるんだと、自分に、内包しながら、還元させ、
自分の種にすることを、私は、選びたい。
決して、それは、犠牲的な生き方では、ないと確信を持っている。




ありがとう、
いろんな事、教えてもらいました。
やはり、あなたは、師匠です。

感謝を込めて。



*私のブログなので、自由に思うことを書きました。
やっと、書けた。。。
ずっと、書きたかった事でした
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