author : rinrin
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たかが10日ほどのことなのに
2008-08-01 Fri 10:55
すっかり、PCから遠ざかっていました。
長い間、文章を書くということからも、遠ざかっていた気分です。

書かなければ、日常の深い奥底に流れる言葉が、
表面から蒸発していって、手の中から逃げてしまうような、そんな気にさせられます。

書くということは、やはり、自分との対話を推し進める、
強力なツールなのでしょう。
日常を、ただ流されて生きることへの、ささやかな抵抗でしょうかねえ。


今日は、仕事が休みなので、朝から、部屋の大掃除をやっております。

手付かずだった・・・・昔、子育てサークルをやっていたころの資料、
原稿、記録、その他もろもろ・・・。
その大量さに、ゴミ袋が、すぐに、いっぱいになっちゃいます。
もう・・・捨てても、いいよね。
と、思いながらも、それでも、捨てられないものも、あるのでした。
いつか、これらが、いい思い出に変わって、
そして、ぎりぎりで頑張っていた自分を、微笑ましく思える時が来るのだろうかと
そんなことを思いながら・・・

少しずつ、整理しながら・・・

手放していいもの、まだ、手放せないものを、再確認している状態です。
まだ、後悔があるのか?
悲しさがあるのか?
自立できているのか?
自分を確認しているのであります。


さて、前置きは、これくらいで(ながっ!!)
先日、怒りのことについて、
考える記事に、2件出会いました。

怒りというより、自分の中に沈みこんだ、
「あくまちゃん」と、どう、折り合いをつけていくかという
そんなことを、考えさせられました。

かつて、インナーチャイルド療法をやっていた頃、
私の中の「あくまちゃん」は、
殺意を持っていました。

でも、その療法をするまでは、自分がそれほどの、怒りと、地獄的心を
持っているという自覚が、ほんとに無かったのです。

その無自覚の「あくまちゃん」は、ときに、社会正義を振りかざしたり、
他人の言葉や行為に対して、意味がわからない突然の怒りを
湧き上がらせたり、ある時は、被害者の顔をして、自己レンピな気持ちにさせたり。


自分でも、コントロール不能な状態に追いやられることも、度々ありました。
療法を続けているうちに、
主に、自分を傷つけてきた(と思い込んでいた)人たちに対して、
復讐せずにはおれない気持ちを抑えられなくてねえ。困った。
しかし、それは、あれだね。。。
やっちゃあいけない!という、制御も、一応あるわけでして。

自分の気持ちを正直に出すということは、
自分が傷つくことだという
そんな、幼い頃からの洗脳もあり、
ここは、自分でも、苦しんだところです。

まだ、心の自立には、ほど遠かった私でしたので、
どうしても、保護者的立場の人の
「やっていいよ」というgoサインが、必要でした。

一応、念のために、言っておきますけれど、実際に、犯罪を犯すということではなく、
インナーチャイルド療法というものは、ほぼ、瞑想とカウンセリングで
できていますので、これは、想念上の、「殺す」です。^^;

で・・・想念の中で、やっちゃったわけです。
自分でも無意識に、ここを超えないと、次に進めないということも、
それまでの、療法の経緯から、知っていたのだろうと思います。

想念の上では、相手を具体的に思い浮かべるわけですが、
瞑想という手法を使っていたので、かなり、リアリティものですね。
具体的に書くには・・ちと・・・う~ん、というくらい、
残虐な殺人でした。


俗にいう、親殺しって言うんでしょうか?
普通は、健全なら、反抗期というものを通ることにより、
無意識の親殺しをやるわけですが、
ACは、親から、「おまえは、おまえで、いてはいけない」と、
強く・・・強烈に刷り込まれているゆえに、
それが、出来ないわけです。

私の「あくまちゃん」は
黒く、餓鬼の子どものようでした。
それが、「怖い、怖い」といいながら、
怯えながらも、暗い目をして、隙あらば、噛み付こうと・・・
そんな感じでした。
私の今までの人間関係をみれば・・・、
この、あくまちゃんのように、
常に、お腹をすかせ、誰かに、「ちょうだい、ちょうだい」と、
取り付いている・・・
まさに、象徴的なものでした。

飢えた子・・・ですかね。


妖怪沼女も、親を殺せなかった、残り火のようなものかもしれませんね。
やっと、それが、浮上してきたということで、
それは、とても、喜ばしいことなのだと、
私は、思ったわけです。

私の「あくまちゃん」も、沼女も、もとは同じだろうと思うのです。


「私は、ここにいるよ。ずっと、あなたが、気づいてくれるのを待っていたのよ」

宿主が、気づいてくれないから、
捻じ曲がった怒りとして、表現されたり、
誰かを、詐取しようとしたりして、そう訴えているのだろうと、思うのです。

沼女を、しっかり、抱きしめてやってください。
どこまでも、どこまでも、追いかけて、
「ごめんね」と、愛をこめて、
何回でも、何度でも、言って欲しいのです。

沼女の顔が変わってきますよ^^

私の妖怪あくまちゃんも、今では、きれいな女の子になりました。
言いたいことを、言いたい時に、伝えてきます。
無視すると、「私を無視しないで」と、怒ってきます。
かわいい、私の一部です。


あくまちゃんでさえ、ちゃんと、認めたら、
無垢な存在に変わるのですね・・・


私は、それを、心の統合ではないかと思っています。
幼いころ、正当な愛情をもらえなくて、
分裂してしまった、自分。
親のかけはなれた矛盾した行為により、
怒りと、正義を、分けなければ、生きていけなかった子どもの頃。

否定された、自分の一部。
それが、妖怪なのだろうと、思っています。

また、おそらく、多重人格というのは、そうやって、できあがっていくのだろうと、
想像します。

人の心は、「良くなりたい、成長したい」と思うように、
そういう風に、できています。
なぜだか、わかりますか?

心というものは、もとより、善でしかないのですよ。。。
だから、自分の中の、善になれない部分を無意識に感じて、
辛くなったり、悲しくなったり、苦しくなったり、
自分を責めたり、人を責めたりしてしまうのでしょう。

人生を、よくしたいと思うからこそ、
感情に、苦しみが、発生するのではないかと思うのです。

でも、100%善ではないことに、罪悪感を抱く必要は無いと、私は思うのです。
もとより、善・・・仏の一部である。そのことを信じていさえすれば、
前を向いて生きていけると、私は、思うのです。
性悪説・・・性善説、と捉えるならば、
性悪説→人間は、もとより、悪い生き物だから、ムチいれて、きたえ治さなきゃならないとするか、
性善説→人は、仏の一部であるから、本来は、善である。が、生き続けているうちに、それらを忘れ、
いつのまにか、日常の波に翻弄され、思考の「癖」ができてしまう。
その「癖」こそ、その人の、今世の宿題であり、存在の理由ではないかと、私は、思うのです。
もとより、善であるからこそ、「乗り越えたい」と熱望するのではないだろうか?
その乗り越え方が、非常に短絡的であれば、犯罪となるのかもしれないし、
深い、仏の知恵と共にあるならば、善きことに変わるのだろうね。

また、そのゆがみは、私たちの人生に、深みを与え、
相手を思いやる心を育て、
自分を大切にすることを教えてくれる。

なぜ、ここに、私たちが、存在するのか?
誰にも、わからないけれど、
でも現実に、ここに生きて、存在するのなら、
豊かに生きていきたいものです。
私のために。
そして、あなた自身のために。





追記

朝方、幸せな夢を見ました。
神に会いました。。。^^;
かみちゃまが、笑顔で、
大きな右手で
しっかりと、包み込むように
私の右の手のひらを握られ、
墨で書いた、烙印をもらいました。
印刷みたいで、すごかった(笑)
夢の中で、感動しておりました。


それが。。。残念なことに、なんと書かれていたのか、
忘れてしまって・・・

あ~肝心のとこ、忘れちゃったじゃない!!

私の、ばか~~~~。


・・・こんなリアルな夢。
久々だ。

しあわせ (人´∀`).☆.。.:*・°


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この記事のコメント
てごわいのね
今まで、閉じ込めていた、感情。
感じては、ならない感情。
自分の中にある、存在していいはずのない感情。
その、存在すら、気づかないでいたかった感情。
そう思っていたものなのでしょうか。

コメントを読んでいて、一番に、ふと、ゲド戦記を思い出しました。(宮崎息子のではなく、原作の方です)

無垢では、いられない悲しさ。
完全に、善にはなれない、苦しさ。
人には、そういうものがあると思いますけれど、
(私にも、あります)

でも、どんなに残虐であったとしても、非倫理的であったとしても、それも自分なんだと思ったりします。
人には、とうてい言えないような、残酷な思いや、嫉妬、憎しみ、持ってるもんですし。
最近の青年の事件(秋葉原等)などを、思うとき、
それを、実行するか、しないか、そこんとこも、考えるとね、大きな罪を実行しないで、今までいられた自分というのも、大したもんだと思ったもんです。

思いは、真ん中でいいと思う。
100%正義であろうとしなくても、100%悪に染まらずとも、その中で、必死こいて、バランスとって生きてるって、すごいことだと思ったりする。

私の中の子は、決して、いい子ちゃんだけやってるわけじゃないのよ・・・^^;
わがままで、自己中で、時には、暗闇の中で、ニヤリと、笑っているような・・・隙あらば、刃で、喉もとかっきられるような、そんな奴ではありますが、なだめたり、すかしたり、「もう、わかったから~、引っ込んどいてよ」と、しんどい気持ちになったかと思うと、反対に、「あんた、いい子ぶっちゃって」とか言われたり、そういう辛らつな面も持ってるわけです。

それも含めて、お付き合いし、飼いならしていく過程も、また、必要かと思うのです。

姿の無い、わけのわからない敵(感情)に翻弄されるよりも、敵を知っている今の方が、最強じゃないでしょうかねえ・・・なんて思うわけです。

光と影。
陰と陽。
闇と光の統合。

これがなされて、はじめて、安定した「人格」となるのでありましょうかねえ。
そのための、人生の問題集。

私もまた、統合の途中です。
ぼちぼち、やっていきましょ♪

2008-08-04 Mon 23:46 | URL | りんりん #-[ 内容変更]
記事、待っていました!

自分の中に妖怪沼女の存在を認めてから、なんだか、以前より人に寛容になったような気がします。外に投影していたのが、ちゃんと、あるべき場所に納まったと言うか。  

さて、沼女さんですが、私にとっては、いい子いい子したり、追いかけてハグする存在ではなさそうで、沼女を穏やかな顔に変えようとする試み自体、「あんた、やっぱり私のことを認めないのだろう、ケッ!私は私だよ。ここにいるんだよ。ば~か!」と、にらんできます。どうやら、これは、私のインナーチャイルドなどではなく、私の内なる悪そのものであり、それがそこにあるのだと認めることだけが、私ができる唯一の、最善のことであるようです。

2008-08-03 Sun 00:20 | URL | らんでる #-[ 内容変更]
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