author : rinrin
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大切なことは、行為・・・ではないのだ。
2009-01-20 Tue 21:15
もし、「世界平和」を望みながら、家庭の平安を望みながら、
その言葉を、口にしながら、
自分の中に、争う心が、あっては、その「平和」には、意味がない。

「争う心」・・・

嫉妬・圧力・優越感・劣等感・コントロール・憎悪・恨み・共依存・・・・等々。


良き行為に見えるものの先に、
その根源の「想い」が、何から出ているのか、
よくよく、見つめることが、大切かもしれない。


不登校の親子の対応の仕方に、
子どもより先に口出しをしない
子どもを否定しない、
そのままの子どもを受け入れる、というものがあるけれど、
なかなか、それは、体験的にも、難しい事だと実感する。

しかし、これらは、結局のところ、「行為」にしか、過ぎない。
これで、ある程度のところまで、親子関係は、
良好になるのだけれど。。。

人が行動を起こしたり、口にしたりする言葉には、
必ず、その行動や、言葉に、その人の「思う」背景があり、
その人物を良きにしろ、悪きにしろ、今まで支えてきた
思考が必ずあると、私は思うのだ。

不登校というものは、
バケツリレーのようなもので、
世代間の悪連鎖が、祖母→母→子供と
つながっているにすぎない。
下に行くほど、バケツは、重くなるのだ。

抱えたバケツを、
「もう、持てないよ・・・」と、
床に置いたのが、不登校や、引きこもりという形で、
表現されるのだろうと、感じる。

もちろん、いじめ、学校が合わないという理由も
あるにはあるのだけれど、
不登校を抱える家族は、おおむね、子どもと親の関係が、
すれ違っていることが多く見られるのも事実。
親は、子供のすべてをわかっているつもり。
子どもは、親が自分を理解していないと感じている。
そんな感じ。。。
熟年離婚に似て、突然、三行半を突き付けられた、
夫に、似ている。


話、それたね・・・


親が、つい、言いなれた言葉と行為を、繰り返し、
子供が、それ以上に疲弊することを、応急的に止めることが、
先決になるために、
見ざる、言わざる、を、大抵の専門家はすすめる。
私も、とりあえず、それを、すすめている。

それは、あくまで、とりあえず、なのだ。


最終的には、
「なぜ、わたしは、『学校は?』『明日は?』『将来どうするの?』等の
これらの言葉を、子供に言ってしまうのか?」
と、そこに、行きついて欲しい。

そこからが、バケツリレーの
最終地点への道なのだから。


私の場合、なぜ、言ってしまうのか?

それは、自分が、そのように、育てられてきたからだ。
圧力をかけられ、自立を阻み、将来の結婚相手すら、
親が決めそうで(笑)、
親のために、いい子であった。

その呪縛が、この年齢になっても、なお、解けなくて、
親を恨みながら、そして、愛しながらも、
私自身の子どもの自由に生きる権利を、
奪いたくてしょうがなかった。
子どもの人生に、乗っかったわけだ。
親としての、評価が欲しかった。

子どもが、私より、自由に生きるなんて、許せなかった。

その根源の、とどのつまりは、嫉妬である。
「心配する」という、甘美な言葉で、
子どもを、心配し、支配しようとしていた。

面白いことに、これらは、意識してされていたわけじゃない。

私も最初は、「行為」だった。
言わないようにしようと、「努力」した。

しかし、突き上げるような気持ちが、結局、余計な言葉を言わせるのだ。
これは、もう、どう、止めようもなかった。
だから、「また、言ってしまった」と、落ち込むことも、多かった不登校一年目だった。

なぜ、言うのか?

どんな、良き行為や慈善も、その根源の、「想い」が、何か・・・・
結局は、子どもの問題に、見えて、自分に帰着するのだった。
目に見える、問題に振り回されないよう。
1番の問題は、見えない問題の方が、もっともっと、大きいのだ。


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白隠禅師の話をひとつ。

ある日、老人の禅師のもとに、役人が来て
「この娘の生んだ子はおまえの子だと言っているが、本当か?」
禅師「あ~、そう」

そして、禅師は、その子を一年間、慈愛をこめて、育てた。
1年たって、娘がやってきて、
実は、その子は、自分の好きな人の子で、
好きな人が罪に問われるので、
あなたの子だと、つい、言ってしまった。

でも、私は、その子が、わすれられません。
子どもを返してください。と。

禅師は、「あ~、そう」

そう言って、慈しんで育てた子どもを、あっさり、
娘に渡した。


禅師にも、心の動きがあったろう。
けれど、彼には、罪になろうが、
赤ん坊が、誰の手にわたろうが、
「今」という時を、そのままに、
執着を切り捨てている。

それほどの、悟りは、私には、必要ないけれど、
年をもっと、もっと、とったら、
そうなりたいものだと、密やかに思うのだった。










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この記事のコメント
ふとしたきっかけが、
「あ~、そうか」という積み重ねが、
大きな変化になっていくんだろうと思います。

その人の、独自の歩み。
とても、素敵だと思うこのごろです。
2009-01-30 Fri 21:36 | URL | りんりん #-[ 内容変更]
深いなぁ
いつもながら深い内容ですね。
私が子供に持たせたバケツの中身はなんだろう?
もう一度じっくりと考えてみたくなりました。
2009-01-26 Mon 12:00 | URL | 虹色スミレ #-[ 内容変更]
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