author : rinrin
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疑似親
2009-06-09 Tue 11:41


今日のBGM^^に、どうぞ。



日々の暮らしの中で、揺れることやブレることは、多々ある。

落ち込むこともあるし、悩むことも多々。

しかし、以前と違うのは、中心は、ぶれないでいられることだろう。

私の中心というのは、自己肯定であり、自分を信じる力であり、

自分の中の幼き魂・・・大切なインナーチャイルドを守れるってことだ。

世の中は、実の親を筆頭に、他人を詐取しようとする人々で、

満ちあふれている。

かつては、奪われた「核」を取り戻さんと、

おもちゃを横取りされないように、幼児のように、必死にもがいていた。


しかし、奪われたものは、何一つないのだと、気づいたころから、

気持ちが、自分の中に、ストンとはまった。

気づきにも、いろんな段階があるのだろうと思うが、

最初は、知識として、きづく。

それから、体験として気づく。

その後、実際に、気持ちが、ストンと落ちる。

「AHA体験」とも、呼ばれますが、

点と点が、つながって、線に、なる瞬間。


しかし、現実の親(あるいは、世間の常識)というものは、変わりようがない。

大体において、自分をACと自認する子どもたちにとって、

「親に変わって欲しい」という願いは、無視されるか、スルーされる。


たとえば、みのもんたの「朝ズバっ」で、

秋葉原事件一年の特集をされていたそうだが、

カウンセラーの中尾さんのインタビューを、

みのは、心で聞けないらしい。

中尾さんは、「なぜ、その事件が起こったのか」

「どうしたら、悲惨な事件を防ぐことができるのか」

心のコップのメカニズムをもって、そういう、話をされたのではないかと思う。

思う・・・というのは、私は、残念ながら、そのTVを見逃してしまったので、

視聴された方の感想を、拾ってみたら、

なんだか、情景を、見ずとも、目に浮かぶような気がした。

おそらく、出演した、中尾先生も、そのようなことは、

事前に知っておられることだったろう。

「こういう時代では、道も安全に歩けませんね~」

という、みのの、コメントに、私は、変わろうとしない親の立ち位置を重ねる。




気づいたものにしか、変えられない、

その役割を担った人々・・・ACの定めは、

ひどく重く残酷だ。

しかしながら、私は、楽観もしているところもある。

かつては、「なぜ、私の代で、世代間連鎖を断ち切る役目なんだろう」

自分の役目が、悲しく、つらく、重かった時期もあった。

しかし、この変革の時期があったからこそ、

次に手渡せる荷物は、少しでも軽くできる。

連綿と続く、世代の受け渡しの中で、

私の役割が、あるのなら、そして、そういう人々が、

苦しみながら、悩みながら、血反吐をはきながら、

歩む行為は、未来の希望へとつながっていると信じることができる。

今は、私は、変革を起こす(した)役割者として、誇りを持っている。


人によっては、親を見限らなければならない自分と、

親に愛されたいチャイルドの狭間で、それぞれの答えは、違うこともあるだろう。

自分に折り合いをつける方法も、また、様々だろう。


今、振り返ると、

私には、二人目の父親と、二人目の母親のモデルがあった。

疑似親ともいうべき人たちの存在だ。


父親のように、おだやかで、ただ、そこに居てくれる人。

見守る人、日だまりの人。

失敗をしても、決して、非難したり、怒り狂ったり、しない人。

私は、時々、たつさんのことを、冗談めかしながらも、情愛を込めて「お父さん」と呼ぶ。



そして、母親のように、やさしく、受け止めてもらえる、お母さん。

時には、姉妹のように、

時には、おろおろしながらも、黙って見守ってくれる、お母さん。

時には、小言も、言い、時には、一緒に笑いあい、抱き合い

互いのドジぶりも、半端なく、飾らず、

特別ではなく、普通のお母さん。

彼女の思春期の子育てを身近でみながら、

私も、ほっこりとした気持ちになれる。
(こちらは、会社の人です↑)



二人とも、何を言ってくれるとか、何をしてくれたとか、そういうものでもなく、

ただ、「そのままの私」を、そのまま、見守ってくれる。



このお父さんとお母さんに出会えたことは、

私にとっては、「核」となるものだった。


親って、何もする必要は、ないんだよね。

必要なとき、必要なだけ、そばにいてくれたら、

それで、いいんだ。

歩きやすいよう、目の前の小石を拾って、

道を整える必要もなく、

ばれないように、後ろから、押すことも、する必要もなく、

人は、じぶんの歩く道は、自分が一番よく知っているものなのだから、

親の存在は、おだやかに、ただ、安心できる場所で、あればいいんだと、思う。

心配という言葉は、自分を格づけるためには、

格好の言いわけだけれど、

自分の気持ちさえ、ままならぬ状態で、子どもの心配もあったものでも、

なかろうに。

幸せであるということは、

「子どもが、思ったとおりに育ち、世間並み」であることでもなく、

「海外に旅行へ行く」ことでもなく、

「お金がたんまりある」ことでもなく、

「すてきな仕事ができる」ことでもなく、

自分が、自分のままで、いられること。

労災の理由が、心の病が過去最多に、なった昨今。

薬でごまかすのではなく、

なぜ、そのような状態になったのか、

心の悲鳴に、耳を傾けるチャンスでもある。





そんな簡単なことなのに、

いろんなものをくっつけて、

いろんな言いわけを作って、いろんな言葉をつくって、

いろんな、借り物の納得を作って、

自分の孤独を、ごまかそうと、

子どもや家族や人を、そして、自分を利用するなんて・・・

そんな悲しいことを、するものじゃないって、

おとうさんと、おかあさんの、背中を見ながら、思うのだ。


私も、かつては、寂しさで、いっぱいの心を埋めるために、

底なしの沼に、何かをせっせと、一生懸命詰め込んでいた。

千と千尋の神かくしの、顔なしのように。

大きく見せよう、えらく見せよう。

だから、「私を愛して」。



ほんとは、なんにもいらないって、わかった今。

シンプルに。

ただシンプルに。

子どもたちを見守る。

家族を見守る。

そして、シンプルに、自分と共に歩む。


おとうさんに、出会えてよかったよ。

おかあさんに出会えてよかったよ。

そうやって、私の中の「お父さん」と「お母さん」のイメージは、

壊され、何度もリロードされるのだった。


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