author : rinrin
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【不登校】それぞれの軌跡(6)番外編(息子編)
2009-11-19 Thu 11:12
設問へのコメント、ありがとうございました。
みなさんが、それぞれ、感じられたこと、それは、自分の心を紐解く大切な鍵となります。
大切に付箋をつけておいて頂きたいと思っています。

さて、息子は、なぜ、そのような行動をするようになったのでしょう。
我が家の場合を書き記しておきます。

我が家には、無数のトラップがあったと、前の記事で書きました。
このトラップは、今振り返ると、恐ろしいほどの矛盾がありました。

たとえば、お刺身の醤油の話が出ましたので、そのことを例にとりますと、
夫は、たっぷり醤油をかけます。私は、少しかけます。
で、夫に「かけすぎでしょ、それ」と、私のその一言で、ゲームがはじまります。
それから、夕食の場が、ゲームの場になり、台無しになっていきます。
子どもたちは、「また、はじまった」と、そそくさと、自室へ消えていきます。
別の日・・・息子も、無造作に、醤油をたくさん皿に注ぎます。
夫とのゲームに気が治まらない私は、言います。
「かけすぎ!」と。
しかし、私のかけ過ぎという感覚は、息子には、どれくらいが、かけ過ぎなのか、わからないわけです。
どれくらいかというと、それは、私のその日の感覚でしかないので、日によって違います。
子どもは、次第に混乱していきます。
一体、何が「丁度いい」のか、母親の顔色を伺うようになります。しかし、その日によって違う母親の気分は、「丁度いい」という感覚を探る息子は、次第に疲れてきました。
そして、「何もかけない」という選択をすることが、身を守ることになると、無力感、抑圧感とともに学ばざるを得なくなりました。

また、あるときは、サラダ。息子が好みのものをかけます。私は、最初に、「これは、このドレッシング」と、決めています。息子には、私の思う「このドレッシング」は、一体どれか、わからないわけです。
しかし、私の中では、作った段階で、決まっているので、思っていたのと違うものを先にかけられたら、違和感が、起こります。その違和感は、次第に怒りとなって、不機嫌さや怒りに変わります。

この違和感は、「私のもともと持っているルール」が、基盤になっていることから、出現しています。
私自身の歪んだ基盤の中には、源家族が、同じようなルールで、過ごしていたことを思い出させます。それらが、日常生活で、慢性的なトラウマを呼び起こします。

世代間連鎖。

その繰り返しを積み重なることで、息子は、「何もしない」ことが、「何も起こらない」ことを、学んでいきました。
そうして、いつしか・・・彼は、何もかけないことを、選択しました。
しかし・・・何もかけない状態は、やっぱり、おいしくないわけです。
そこで、彼は、記憶の操作をしました。
自分に言い訳を作りました。
「素材の味が楽しめる」と。
「カロリーが高くなる」と。
そう記憶を書き換えた時点で、かけないで食べることに、自分を納得させることに成功しました。
彼には、自分の心を守るために、誰にも攻撃されない、りっぱな大義名分が必要だったのです。
そして、それが、彼のルールになりました。
今、家庭の中のルールは、取り払われ、一人一人が尊重されるように、なりました。
世代間連鎖の内在した怒りは、ほどけつつあります。
息子は、やっと・・・自分で好きなものを、サラダにかけて食べることができるようになりました。
息子の奪われた心は、世代間連鎖の終焉とともに、息子のもとに、もどったということです。

これは、我が家の象徴的なことです。
なにも、調味料だけの話ではありません。
そのことを踏まえて、振り返りの参考にしていただければ、幸いです。


頂いたコメントに、「我慢」という言葉がありました。
ただ、我慢することは、人は、なかなか出来ないものだと感じます。
「我慢」を、自分に納得させるために、
「自分の歪んだルール」を作るのだと感じます。
そして、ルールは、昔からそこにあったように、記憶を書き換えます。
当たり前のように。空気のように。

しかし、こっそりと押し込めた我慢は、無意識に人にも我慢させることを、強要しようとします。
「感じないようにしよう」「見えないことにしよう」

だけど!

「だから、あなたも、そうしなさい」

これは、エネルギーの法則だと感じます。
入れた負のエネルギーは、負のエネルギーとして、放出され、
正のエネルギーは、正のエネルギーとして、出る。

世界は、そういったエネルギーの交換で、できているのではないかと、
そう感じます。

かつての被害者が、加害者になりうる、ということ。
それが、世代間連鎖の特徴だと感じます。

「どか食い」について、コメントにありましたので、追記しておきます。
息子の場合は、また、別のところでの、発散だったように、思います。
息子も、不登校をはじめた頃、
スナック菓子と、炭酸で、かなり、まるまるしたぷ~ちゃんになりました。
素材の味どころか・・・、当時は、もう、めちゃくちゃな食べ方でした^^;
鬱屈した気持ちを、お菓子でごまかすように。

今は、食べたいから、食べる程度になりました。
まるまるとした体型は、すっかり、スレンダーになりました。

食べるという行為は、
「欲しい」という心の飢餓の象徴ではないかと、思うこともあります。
心と体は、密接に関係していると、息子を見ながら、
今、本当に思うことです。
「食べる」行為は、一時を忘れさせてくれます。
人を無心にさせます。
しかし、その後の自己嫌悪が、また自分を落ち込ませます。
食べることを、やめさせようとしても、それは、また、別のところで、代価を払うことになるでしょう。
過食・・・(欲しい)、拒食・・・(殺したい)、リストカット・・・(生きたい)
結局、生き残るための、究極の方法として、与えられてしまった最後の方法なのだろうか・・・と感じます。

死にたいは、生きたい。

殺したいは、愛したい。


根本は、同じ。

今、そう感じています。

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この記事のコメント
りぼんさんへ
はじめまして^^

書き込み、ありがとうございます。

>自分の内なる何かが溶けないとやっぱり
>根本的に変われないような。。。

はい、自分の心で感じることが、一番大切なことだと思いますよ^^

よろしかったら、コミも、覗いてみてください^^
参考になるのではないかと、思いますよ。
2009-11-21 Sat 21:34 | URL | りんりん→りぼんさんへ #-[ 内容変更]
まるまるまるこさんへ
「~していい?」

丁度中間地点の頃、子どもは、親を確認します。
自分が、してもいいと、感じていることと、親が、承認してくれることが、一致しているかどうか、確かめるのですね。

そして、間違いないなと、確認の作業が、気が済んだら、子ども側からの承認は、なくなりました。
親の心と言葉の一致を試されるときではないかと、今になって私は感じます。自分の言葉と感情の一致を丁寧に感じることの大切さが、この時期にあるのではないかと思います。

殺したい・・・
関心も、期待もなければ、そのような言葉は、ないでしょう。

「私は、ここに、いるよ、お母さん、気づいてよ」、

その気持ちが、殺したいに変化する過程を考えると
ほんとに・・・チャイルドが。。。泣くのです。。。


2009-11-21 Sat 21:26 | URL | りんりん→まるまるまるこさんへ #-[ 内容変更]
レオンママさんへ
>自分が被害者であると同時に加害者であるところが
一番難しかったような気がします。

自分が加害者である、
これを、認めることが、どれほどの苦痛を伴うことなのか・・・。

「この苦痛を、子どもに味合わせたくない」、そういう思いだけが、母親の心をずたずたにしながらも、再生へと、導くのでしょう・・・。


>自分のしたことを自覚して欲しい、

そうだと思います。それだけで、被害者は、救われる気持ちになると、私も思います。
私たちは、被害者としての子どもであり、かつ、加害者としての親である、その複雑な立場にいても、なお回復へ向かおうとする力を持つ・・・まさに、サバイバー「生き抜いてきた者」、として、これからの人生を誇りを持って生きていきたい、そう思います。


>私が彼らにしたことを
>認証しようと思っています。

認証する・・・、「あなたが、あの時感じたものは、確かに真実です」と、子どもたちに、私も、そう伝えていきたいと思います^^
いくらでも、何度でも。
2009-11-21 Sat 21:11 | URL | りんりん→レオンママさんへ #-[ 内容変更]
あまりに・・・似ていて
最近こちらにおじゃまするようになりました。
「死にたいは生きたい」
「殺したいは愛したい」

息子の1年前の姿に重なります。

そして、
「我慢」「自己犠牲」
怒りや負のエネルギーがめぐりめぐって。。。

自分の中のどうしても解決できない部分に
ようやくむきあう時がきたような気がします。

息子(今年単位制の高2(本当は3年)に移った)
の大嵐の中で、自分もうつになり
こころの体力?もようやく回復したようなので・・・

自分の育ちや意識のむこう奥深く眠るものが
こんなにも我が子にまで、影響していたかと思うと
ただただごめんねと悔やんでも悔やんでも胸が痛むのです。

少しずつ子どもへ黙って見守っていようと
思える反面、
自分の内なる何かが溶けないとやっぱり
根本的に変われないような。。。
あまりにも自分と重なる言葉の数々に
今がその時なのかと
ゆっくりと過去の記事読んでみたいと思います。
どうぞよろしくお願いします。
2009-11-20 Fri 16:06 | URL | りぼん #-[ 内容変更]
ありがとうです^^
りんりんさん、こんにちは^^

我が家でも長年、りんりんさんのご家庭と同じようなことを、繰り返してきました。
その中で、息子も「何もしないこと」を、身につけていきました。
私が、「何で〇〇しないの?」と聞くと、息子はよく「面倒くさいから」と、言いました。
私は「面倒くさいって、なんやねん」と、思ってきましたが、息子は、そうすることで「自分の心」を守ってきたんだと、気がつきました。
今は、「行動する」ことができるようになってきていても、よく私に「〇〇していい?」と、聞くので、まだまだ、私のことを伺っているんだろうと思いますが、「言葉」にして言えるようになったことも、「成長」なのかなぁと、思うようになりました。
ひとつ、ひとつ、こうやって積み重ねていくのかな…と、思っています。

昨日、自分と息子とのことを振り返り、言葉にしていく中で、息子が「死にたい」と言ったこと、私に「殺してやる」と言ったことを書きました。
「死にたいは、生きたい」「殺したいは、愛したい」…
息子の言葉の裏にも、そんな思いがあったんですね。

そして、自分の心の中にも…。
自分の感情が出てきたときに、「親への殺意」と「自分が死んでしまいたい」という思いが出てきて、苦しみました。
そうか~そうだったんだ…ものすごく腑に落ちました。
深い気づきを、ありがとうです^^
2009-11-20 Fri 10:34 | URL | まるまるまるこ #aN9AbwgY[ 内容変更]
こんばんは

>死にたいは、生きたい。

>殺したいは、愛したい。

本当にそうですね。

今、思い出すと、自分が被害者であると同時に加害者であるところが
一番難しかったような気がします。
許してもらおうとすることが、子供達にとって、こんなに辛いことだったか
気付くまでにずいぶん時間がかかりました。

私が、両親に対して、謝ってもらいたくない、ただ、自分のしたことを
自覚して欲しい、と思った時に、やっとわかりました。
両親を殺したい、と思ったほどの感情は鎮まっていました。
そして、私は子供達に自分がして欲しかったことをしました。
でも、そうすることは、今でも時々ちょっと辛いです^_^;

私が生きている間は、何度でも、私が彼らにしたことを
認証しようと思っています。
その回数も近頃は随分減ってきましたが。
2009-11-20 Fri 00:11 | URL | レオンママ #t50BOgd.[ 内容変更]
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